聖書と学問の分岐点

 

聖書においては、
この「こころ」という言葉が意味しているのは、
人間自身が認識することもできず、
支配することもできない、
あの人間の最も深いところにある本質的なもののことである。
あの人間を動かす究極的な中核となっているものである。
これは、
われわれ自身にとっても謎めいたものであり、
われわれが持ち合わせのものや
自分の意思によって好きなように動かすことのできないものなのである。
聖書において
まさにわれわれが
自分で自分を認識する義務があるとされていない
のは、
感謝すべきことと言えよう。
あの〔ソクラテスが聴いたという神託が語る〕〈自分自身を知れ〉
ということは、
恐ろしい励ましであり、
自分で果たしようがないものだからである。
(加藤常昭編訳『説教黙想集成 1 序論・旧約聖書』教文館、2008年、pp.719-720)

 

上の引用文は、
ドイツのルター派牧師で実践神学者のヴィルヘルム・シュテーリンが、
旧約聖書のエレミヤ書第17章5-14節に関して記述した
文章から。
さて、
「知・情・意」という言い方がありますが、
「情」には「こころ」の意味があり、
「情」に「こころ」と振り仮名を振っているものもあります。
「知・情・意」というと、
なんとなく並列な感じがし、
三つがバランスよく保たれているのが良い、
みたいなニュアンスがありますが、
神経心理学の山鳥重(やまどり・あつし)さんに言わせると、
人間にとって情の世界が圧倒的に大きく、
いわば海のようなもの、ということになるようです。
聖書で説かれている「こころ」と
心理学で説かれている「こころ」、
大きく離れているようで、
それぞれカーブを描いて近接してくる具合です。

 

・尻を振り怒つてゐるのか蟬の声  野衾

 

毎日が印象派

 

朝に夕に空を見上げ、雲をながめることが多くなりました。
この光の感じはモネ、
この薄い翳りはシスレー。
風景、風の景、風に景色あり。
天に気があるように
人に気があり、
目覚めては、
きょうの光を黙想します。

 

・主無き閨に陣取る青大将  野衾

 

さまざまの事おもひ出す

 

秋田の父から電話があり、
叔父の勤が亡くなったことを知った。
享年八十二。
勤と書いて、
つとむ。
標準語ならフラットに読むはずだが、
秋田では、
バナナのアクセントが三文字の真中、「バ」のつぎの「ナ」にあるように、
叔父の名前は「と」にアクセントがある。
む。
父はぽつりと、
「きょうだいのうち、これで、三人亡ぐなってしまったハ」
わたしは、
かけることばを失った。
「三人亡ぐなってしまった」なら、
ちがっていたかもしれない。
最後に発した「ハ」にこめられた父の万感の思いに胸を打たれた。
叔父は歌が上手かった。
かつて友人のミュージシャンを秋田に同行した時、
叔父の歌を聴いて、
しろうとの上手さではないと言った。
叔父は若いころ、
歌手になりたくて東京に出たことがあった。
父はそのとき親代わりとして東京を訪れ、
部屋探しに付き合った。
叔父は歌手にはならなかった。
営林署にながく勤めた。
生まれて間もなくの病気が原因で障害を持ってしまった長男のことを、
いつも思っていた。
数年前、
親戚一同でカラオケのできる店に集まったとき、
叔父に寄り添って歌う息子の姿に、
そこにいるみんなが目頭を押さえた。
長男も、
叔父に似て、歌が好きだ。
叔父の住まいのすぐそばに神社があった。
うっそうとした林のなかに蟬の声が響いている。
ちいさな子供がしゃがんで、
なにか探しているようだ。

 

・文字以前社にひびく蟬しぐれ  野衾

 

人柄

 

訳詩は誰のためにするのか。
私は、
「日本語を理解する原作者」という架空の人物を第一の相手としているのに、
ある時、気づいた。
もちろん、
それは荒唐無稽な反実仮想である。
しかし、
そうでなければ、訳詩はむなしい作業である気がする。
反実仮想の実体は、私の中に取り込まれた原作者の人柄である。
ここで人柄といったが、
それは主に文体から得たものである。
その他のすべても二次資料による。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.180)

 

数年前、
中井さんが訳した現代ギリシャ詩やヴァレリーの詩を読んで、
ことばに対する感覚がなんて鋭く、
またあたたかいんだろうと驚いたが、
こんかいこの本を読み、
その時の感覚がよみがえった。
人柄をじぶんのなかに創造しながら詩を訳す、
それに似たことをわたしたちは、
本を読むときに無意識に行っているのでは、
とも思う。
訳詩の仕事は、
ひょっとしたら、
そのことに通じる、より深い体験なのかもしれない。

 

・くちなはをぶんまはす父の入れ歯かな  野衾

 

湘南も乗れーる

 

打ち合わせのため、岡田編集長と湘南深沢へ。
大船駅から初めて湘南モノレールに乗車。
小ぶりの車輛で、シートも小ぶり。
みじかい時間でしたが、
車窓から見える景色も初めて。
大船駅と湘南江の島駅を結ぶ線ということですから、
しばしの観光気分を味わえるかと思いきや、
景色も、車両も、
頭上で鳴るゴトゴトいう音も、
ふつうの日常と思え、
「湘南」から想像されるもろもろとは違っている気がし、
それがむしろ新鮮でした。

 

・蜥蜴の子ひらがな残し消えにけり  野衾

 

古代のリーダーたち

 

伝承はモーセがこの歌を歌ったと伝えている
(出エジプト記第15章1節、申命記第31章19節、30節)。
それどころかモーセは最も厳密な意味において、
つまり、
霊媒の働きに似た神に生きる詩人であったのである。
神はモーセに神の言葉の筆写をさせておられる
というのである。
「あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、
それを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい」
(申命記第31章19節)。
(加藤常昭編訳『説教黙想集成 1 序論・旧約聖書』教文館、2008年、p.402)

 

上の引用文の冒頭「この歌」とは、詩編第90篇を指しています。
原著作者は、
スイスの著作家、改革派教会の神学者であるクルト・マルティ(1921-2017)
聖書のモーセについて、
このように解釈するのをわたしは初めて読みましたが、
柿本人麻呂や孔子に対する白川静さんの見方
とも重なり、
古代のリーダーたちの心性、
それと、
圧倒的な話し言葉の厚み、深さ、
いわば、ことばの海、
ということを考えずにはいられません。

 

・声無くも摘まめば強し蟬の羽  野衾

 

玄鳥

 

中国最古の詩集『詩経』に「玄鳥」という詩があり、
書き下し文では、
「天 玄鳥に命じ 降(くだ)りて商を生ましめ 殷の土の芒芒たるに宅(お)らしむ」
というふうに始まります。
この玄鳥、ツバメのことで、
中国古代の国のはじまりの象徴とされていたことが分かります。
さて、
ツバメといえば、
春風社のロゴはツバメです。
さらに。
『詩経』には風、または国風という
民謡に分類されるもの
がありますが、
『白川静著作集』の表紙には全巻、
この「風」一文字の卜字が大きく空押しされており、
(函にはさらに大きな卜字「風」の印刷)
ここにも春風社との縁を感じます。
ふたつともまったくの偶然
ではありますが、
ふかく文字とのつながりを感じ、
うれしくなりました。

 

・蟬しずか重さ無くして骸かな  野衾