人柄

 

訳詩は誰のためにするのか。
私は、
「日本語を理解する原作者」という架空の人物を第一の相手としているのに、
ある時、気づいた。
もちろん、
それは荒唐無稽な反実仮想である。
しかし、
そうでなければ、訳詩はむなしい作業である気がする。
反実仮想の実体は、私の中に取り込まれた原作者の人柄である。
ここで人柄といったが、
それは主に文体から得たものである。
その他のすべても二次資料による。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.180)

 

数年前、
中井さんが訳した現代ギリシャ詩やヴァレリーの詩を読んで、
ことばに対する感覚がなんて鋭く、
またあたたかいんだろうと驚いたが、
こんかいこの本を読み、
その時の感覚がよみがえった。
人柄をじぶんのなかに創造しながら詩を訳す、
それに似たことをわたしたちは、
本を読むときに無意識に行っているのでは、
とも思う。
訳詩の仕事は、
ひょっとしたら、
そのことに通じる、より深い体験なのかもしれない。

 

・くちなはをぶんまはす父の入れ歯かな  野衾