聖書と学問の分岐点

 

聖書においては、
この「こころ」という言葉が意味しているのは、
人間自身が認識することもできず、
支配することもできない、
あの人間の最も深いところにある本質的なもののことである。
あの人間を動かす究極的な中核となっているものである。
これは、
われわれ自身にとっても謎めいたものであり、
われわれが持ち合わせのものや
自分の意思によって好きなように動かすことのできないものなのである。
聖書において
まさにわれわれが
自分で自分を認識する義務があるとされていない
のは、
感謝すべきことと言えよう。
あの〔ソクラテスが聴いたという神託が語る〕〈自分自身を知れ〉
ということは、
恐ろしい励ましであり、
自分で果たしようがないものだからである。
(加藤常昭編訳『説教黙想集成 1 序論・旧約聖書』教文館、2008年、pp.719-720)

 

上の引用文は、
ドイツのルター派牧師で実践神学者のヴィルヘルム・シュテーリンが、
旧約聖書のエレミヤ書第17章5-14節に関して記述した
文章から。
さて、
「知・情・意」という言い方がありますが、
「情」には「こころ」の意味があり、
「情」に「こころ」と振り仮名を振っているものもあります。
「知・情・意」というと、
なんとなく並列な感じがし、
三つがバランスよく保たれているのが良い、
みたいなニュアンスがありますが、
神経心理学の山鳥重(やまどり・あつし)さんに言わせると、
人間にとって情の世界が圧倒的に大きく、
いわば海のようなもの、ということになるようです。
聖書で説かれている「こころ」と
心理学で説かれている「こころ」、
大きく離れているようで、
それぞれカーブを描いて近接してくる具合です。

 

・尻を振り怒つてゐるのか蟬の声  野衾