『五・七・五交遊録』

 

和田誠さんのたのしい本を読んでいます。
『五・七・五交遊録』(白水社、2011年)
本の帯に
「思い出のなかの俳句 友だちにおくる俳句」
とありまして、
友だちとのエピソードを交え、
かれ、かの女におくる俳句が添えられていますから、
こういうふうにつくる俳句もいいなぁ
と思います。
横尾忠則さんにちなんだ俳句は、

 

洞窟を行く少年の夏帽子

 

和田さんは横尾さんを「横尾ちゃん」と呼び、
横尾さんは和田さんを「和田君」と呼んでいたらしい。
たのしいエピソードがつづられたあと、
さいごのところにこんなことが書かれています。

 

ついでに言うと横尾ちゃんは俳句に興味はなさそうですが、
最近は小説を書き、書評もします。
小説では鏡花賞も受賞してる。
客観的には今やたいへん立派な芸術家ですが、
会って話したり電話で喋ったりする時は昔のまんま。
ぼくにむずかしいことを言っても理解できないことを知っているので
「熱射病で寝てた」とか
「いろいろめんどくさい」とか、
そんな話ばかりです。

 

和田さんのイラスト同様、
シンプルですが、力の抜けた味のある文だと思います。

 

・ご近所さんと珈琲喫す五月かな  野衾

 

『カラクテール』

 

岩波文庫に入っている『カラクテール』、
著者はラ・ブリュイエール。
この本、わたしにとりまして思い出深い本。
読んだのではありません。
いま、
会社の机の上に上、中、下、三冊並んで立っています。
なんで思い出深いかといえば、
大学生のころ、
ということは四十数年前のことになります。
大学生協の書籍部で、
岩波文庫フェアーか何かだったかと思いますが、
ほかの本といっしょに
そこに置いてありました。
『カラクテール』
なんだカラクテールって?
酒の名前か?
ひょっとしてひとの名前?
いや、むずかしい哲学の本か?
というふうで、
冷やかし気分で眺めていたところ、
わたしは習っていないけれど知っている英語の先生が、
その本を手に取りレジに持っていきました。
へ~、
あの先生、
こんなの読むんだ、
それだけのことですが、
なぜだかそのシーンを覚えています。
昨年のことになりますが、
岩波文庫版『カラクテール』の訳者・関根秀雄先生のお嬢さんに
手紙を書く機会がありました。
関根先生は、
モンテーニュの日本への紹介者
といっていい人で、
生涯をかけて『随想録』の日本語訳文を磨き、
生前いくつか訳書がでていますが、
没後四半世紀を経て国書刊行会から決定訳が出されました。
お嬢さんが解説を書かれています。
すばらしい翻訳で、
お嬢さんに連絡したのは、
これを読んだことがきっかけでした。
ご返事をいただきました。
というようなことがありまして、
関根先生が『カラクテール』も翻訳されていることを知るに及び、
読んでみようと思い立ちました。
四十数年前、
あの英語の先生がレジに持っていったのと同じ本。
こういう日が来ることを、
大学生時代のわたしは知る由もありません。
で、
『カラクテール』、
会社の机の上にあって、
いまのところ、まだ読んでいません。

 

・放屁して健やかに居り老いの夏  野衾

 

馬と人

 

万葉集巻第十八の4081番は、

 

片思を 馬にふつまに 負ほせ持て 越辺に遣らば 人かたはむかも

 

伊藤博の訳は、

 

この私の片思い、
こいつを馬にどっさり背負わせて越(こし)の国に遣わしたら、
どなたが手助けしてくれるだろうかな。

 

これは、
大伴家持にとっての叔母であり、妻坂上大嬢の母でもあった坂上郎女からの来信。
このとき家持は越中国に赴任中。妻と義母は奈良の都にいる。
この歌は、
肩の力を抜いた少し冗談めかしたものになっている。
この歌に馬がでてくる。
伊藤博の文章の中に
「都と越中との往還には多く馬が利用された」とあるから、
すでに万葉の時代に、
馬は人間の暮らしに無くてはならないものだった
ということだろう。
わたしの子ども時代、
わたしの家はもちろん、友だちの家に遊びに行っても、
けっこう馬を飼っている家が多かった。
玄関先に馬屋があるのはふつうのこと。
それが小学校、中学校とすすむうちに、村から馬が消えた。
農作業や移動手段として馬を使うことがなくなった。
この間の時代の変化は、
ふり返ってみれば、ものすごいものだった。

 

・泥動く池の底なる鯰かな  野衾

 

渡来人のこと

 

[人麻呂歌集]歌・作者未詳歌のあの七夕歌の群作は、
中国の典籍の中から生まれてきたものではなく、
民俗的な大衆の行事の中から、
その共有する意識や感情のもとに、生まれてきたものと思う。
その民俗を伝え、
地域社会の中でそれを演出してみせたのは、渡来者の集団であったとみてよい。
中国風の説話の知識で七夕歌が作られるのは
憶良・家持に至ってからであるが、
それはおおむね宴飲歌であり、独詠歌である。
比較文学的立場から、
このように半島文化を基盤とする文化活動のなされている時期を、
私は[万葉]の初期とし、
万葉的なものの成立期・完成期とするのである。
そしてその時期を代表するものが、人麻呂であった。
(白川静『白川静著作集 11 万葉集』平凡社、2000年、pp.319-320)

 

「令和」の文言が万葉集はもとより、
中国の古典『文選』までさかのぼれる
という指摘にもみられるように、
日本の古典と中国文学の比較研究はかなりありますが、
白川さんの本を読んでみて、
影響といい、模倣といっても、
時代状況に鑑みれば、
ひとの移動がなければそれは起こらないことを
あらためて気づかされました。
朝鮮半島から日本に渡ってきた人びとの風俗習慣のなかに、
たとえば七夕があり、
そのことを踏まえての七夕歌ととらえれば、
おのずと味わいがちがってくるようにも思います。
白川さんはまた、
若いときから『詩経』と『万葉集』の比較研究をあたためていたようです。

 

・太陽と池の底なる鯰かな  野衾

 

万葉集の表記

 

奈美多氐波 奈呉能宇良未尓 余流可比乃 末奈伎孤悲尓曽 等之波倍尓家流

 

万葉集巻十八の4033番の歌。
これを、のちの漢字仮名交じりふうの表記に直すと、

 

波立てば 奈呉の浦みに 寄る貝の 間なき恋にぞ 年は経にける

 

こうなります。
以前にも触れたように記憶していますが、
いまいう恋愛の「恋」の字を、万葉仮名では「孤悲」と書きます。
これ、なかなかに意味深長。
なんでかといえば、
恋をするから「孤悲」、ひとりが悲しいのか、
「孤悲」、ひとりが悲しいから恋をするのか、
ん~~~
じぶんの半生を振り返ったときに、
なかなかな気がする、
だけでなく、
古代の人も、恋の中身、ありようと「孤」「悲」を関連づけていたのか
と思うから。
ちなみに、
4033番のこの歌、伊藤博さんの訳は、

 

波が立つたびに奈呉の入江に絶え間なく寄って来る貝、
その貝のように絶え間もない恋に明け暮れているうちに、
時は年を越してしまいました。
(伊藤博『萬葉集釋注 九』集英社文庫、2005年、p.340)

 

・代掻きや人間(じんかん)絶えて夜の星  野衾

 

戸を出でず

 

『老子』に「戸を出でずして天下を知る」という言葉がありますが、
僕は
「戸を出でず、天下を知らず」(笑)という生活をしています。
朝からこの書斎というより書庫にこもって、
原稿を書きます。
思うように書ければ二百字詰めで三十枚。
平均で二十枚。
正月三が日は来客があるからお休みにするが、
あとは毎日スケジュールをたてて書いていきます。
出歩くのも、運動のため朝夕の郵便ポストへのつかいと、
月二回の診察だけ。
そんな生活をもう十一年以上続けているから、
疲れて大丈夫かなと思う時もありますよ。
(白川静『白川静 回思九十年』平凡社、2000年、p.143)

 

どれぐらいのスペースか分かりませんが、
白川さんにとって、
書斎兼書庫が無辺の世界であり、宇宙だったのでしょう。
うらやましい気もしますが、
とても真似できないなと思います。

 

・代掻きや空の鏡を研くごと  野衾

 

六月のにほひ

 

きのうから六月。
予報どおり一日静かな雨が降っていました。
ゲラ読みがけっこう進み、気をよくしての帰り道、
自然の色と香にしばし立ち止まり、緑を写真に収めました。
一冊一冊ていねいに、
著者に、読者に、喜んでもらえる本をつくる、
それがわたしの仕事。
たいへんな時期ですが、
あらためて肝に銘じ、よそ見をせずに、
蚕が桑の葉を食むように文字を、言葉を、刻みたい。

 

*きのうの文章中、
「いくつかの賞を受賞し」の二つの「賞」の字が
「章」になっていました。
うっかりミス。
お詫びして訂正いたします。

 

・放屁して後は虚空の五月かな  野衾