編集者空海

 

こういう時期ですので、
なるべく家でおとなしくし、
ふだん読めないものを読もうと思い立ち、
以前購入していてつんどく状態だった
沙門空海の『文鏡秘府論』を読みはじめました。
空海は、
遣唐使として804年に唐に渡りますが、
二年後、帰国する折にいくつかの文献を日本にもたらしました。
そのなかから、
六朝時代から唐代にかけての創作理論をえらび
編纂したものが『文鏡秘府論』です。
これは、
その多くが彼の国の文献からの引用で、
空海の文章は、
天巻の総序と東巻、西巻に付された小序のみ。
おもしろいのは、
文献の編集の仕方で、
空海はあまたある文献を
天巻、地巻、東巻、南巻、西巻、北巻に整理し、まとめています。
解説者の興膳宏によれば、
曼荼羅を意識したものであろうとのこと。
こまかい理論はともかく、
詩文について、
六朝および唐の時代のひとびとがどんなふうに考えていたか
がしのばれ、
千二百年の時をゆっくり旅してあそぶ風情。
きのう読んだところに、
「詩はこころを寛(ゆる)ませる」
とあり、
合点がいきました。
興膳さんは、
吉川幸次郎の弟子筋にあたる方ですが、
興膳にとっての『文鏡秘府論』の語釈・解説は、
いわば、
吉川幸次郎の『杜甫詩注』にあたるかとも思われます。
筑摩書房からでているこの巻には、
『文鏡秘府論』を抄録要約した『文筆眼心抄』も入っていて便利。

 

・藪漕ぐや鳶の下なる滝の春  野衾

 

芸文井川

 

わたしのふるさと秋田県井川町では、
年に一回、土地のひとたちの文章をあつめた文芸誌を発行しています。
昨年、
発行元である協会の会長さんから連絡があり、
拙著『父のふるさと 秋田往来』『鰰』
から転載させてほしい
とのことでした。
それが掲載された第45号がきのう会社に届きました。
下の写真がそれです。
表紙絵は伊藤孝之助というひとが昭和39年に描いた「井川二十五景」から。
わたしはこの方を知りませんが、
描かれた絵から
その場所がどこか、
そこをどんな気持ちで歩いていたか、
すぐにこころに浮かんできます。
ページをひらくと、
詩、俳句、短歌、随筆、協会の活動を紹介する文章など、
土から芽吹く山菜のごとく、
ことばたちがきらきら輝いています。
地貌季語という考え方があるようですが、
土地から生まれ、
季節季節の貌(かお)ともいえることばがこの冊子には息づいています。

 

・春かぞへ田仕事はかる農夫かな  野衾

 

お灸ファン

 

徒然草第百四十八段

 

四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。
必ず灸すべし。

 

兼好法師も灸をすえていたのでしょう。
上気とは、
のぼせること。
三里は、『おくのほそ道』の序文にもでてくる、
鍼灸でいうところの有名なツボ。
代田文誌の『沢田流聞書 鍼灸眞髄』(医道の日本社、1941年)
のなかに、
鍼の名人木村金次郎氏の説として、
以下の文章が紹介されています。
「三里は胃、脾、腎にきく。故に三里という。
里は理に通ずる。即ち三理である。
三里に鍼すると委中のコワバリがとれ、膀胱がよくなる。
即ち三里は先天、後天の気を養う。
これを以て元気衰えず、故に長命の灸という。」(p.266)
これは、
盲目の鍼名人木村氏の説を、
沢田健が弟子の代田文誌に話したもの。
木村氏と沢田先生の親交は深かったらしい。
マスク、手洗いと併せ、
免疫力、自然治癒力を高めるために、
手軽なお灸はいかがでしょうか。
三里には、
手の三里と足の三里がありますが、
ツボの位置は、
ネットで調べればすぐにでてきます。

 

・春宵や滑りゆく無言のタクシー  野衾

 

きょうの一日

 

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読みながら、
快楽について、欲望について、友愛について、徳について、幸福について、
いろいろと考えさせられました。
とても2400年も前に生まれた人の書いたものとは思えません。
たしかに、
奴隷についての見方など、
アリストテレスといえども、
その時代の価値観から逃れることはできなかった
わけですが、
しかし、
それもまた、
アリストテレスもわたしたちと同じ、
神でない人間であることの証であると静かに観想されます。
放射能と新型コロナウイルス、
どちらも目に見えず、
また、
こんな状況になっても
我欲としか思えぬ呆れる対策しか打ち出せない
リーダーたちの体たらくを目の当たりにし、
それだけではない、
人間という動物が本来持っているはずの高邁と崇高に
すこしでも触れながら、
きょうの一日を過ごしたい。

 

・忘れたき嘘もありけり春の虹  野衾

 

虚しい人

 

以前勤めていた会社に、
K大の医学部出身で、
かつてJALのキャビンアテンダントをつとめたひとを奥さんに持つ
という人物が営業マンとして途中入社してきた。
仮にいまこの人物をOとする。
いつもにこにこと笑顔で、
ずんぐりむっくりの、
なんとなく「笑ゥせぇるすまん」
をほうふつとさせた。
たまに、
社長とわたしとOさんの三人で夜の街に繰りだすことがあった。
女性がそばにつくスナックへ行くと、
Oさんは、
ウエストの半分が首周りで、
首の半分が手首だというネタを女性に披露した。
行くスナック行くスナックで、
それを繰り返した。
あたかもそのネタの披露がK大医学部出身者の証であるかのごとく。
いつしかOさんは、
‟歩くウソつきマシーン”と称ばれるようになった。
Oさんのことを思い出したのは、
いま読んでいるアリストテレスの文章にこんな箇所があったから。

 

自分に現にそなわっている以上のものを、
何の目的もなしに見せかけるような人は低劣だと思われるが
(なぜなら、低劣でなければ虚偽をよろこびはしないからである)、
しかしその人は、
悪しき人であるよりもむしろ
「虚しい人(マタイオス)」に見える。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』京都大学学術出版会、2002年、p.186)

 

経歴詐称だけならともかく、
Oさんの身についたウソは止まず、
会社にとって大きな損害となるようなウソに発展してしまう
ことも後に起こった。

 

・亀鳴くや三渓園のしやつくり  野衾

 

クマバチ?

 

出勤途中、
階段を下りたところに咲いている紫の花(名前を知らず)
に、
一匹のハチが縋りつくようにしていました。
縋りついていたわけではなく、
花の蜜を吸っているのでした。
ずんぐりしたハチで、
ハチにつかまれた花弁はこうべを垂れ、かすかに揺れています。
ゆら、ゆらり。
ハチは三秒とじっとしていることなく、
蜜を吸ってはつぎ、吸ってはつぎ、花から花へと。
スマホで写真を
とも思いましたが、
焦点を合わせづらい気がして止めました。
ずんぐりした体型からクマバチかとも考えましたが、
クマバチにしては体が小さく、
マルハナバチではなかったかと思われます。
ハチにコロナは関係ないよう。

 

・自転車を停めて聴き入る雉(きぎす)かな  野衾