物語

 小社PR誌『春風倶楽部』第6号の特集「物語の可能性」へ原稿を寄せてくれた山田太一さんは、「人間はむき出しの現実になど耐えられないから、いつも物語を必要としている」とおっしゃっている。原稿をいただいたときは、そのとおり理解したつもりになっていたが、今、ふと思い出して噛み締めてみると、なんと切実な言葉なのだろうと驚く。物語なしのリアル、むき出しの現実というのは、怖くて目を塞ぐか耳を覆いたくなるようなもので、例えば、ムンクのあの有名な絵は、そういう人間のリアルな姿を表現していたのかもしれない。

誤算

 会社を興してから3年目で刊行点数が50点を突破したとき、1ヶ月の取次(トーハン、日販、大阪屋など、本の問屋)経由の注文が合わせて600冊ぐらいだったと記憶している。わが社はもとから学術図書中心の出版社だから、いわゆる流行物、季節物とはちがって、流行り廃りがない。はずだった。アイテム50で月600冊ということは、順調にいけば100で1200冊。200で2400冊。うひょうひょうひょうひょひょひょひょ… となるはずだったのだ。
 いま、そのアイテム数がいよいよ200に近づこうとしている。今日のタイトルと話の流れからしてすでにお気づきかと思うが、アイテムが200になろうとしているのに取次経由の注文は、予想に遥かに及ばない。それほど市場が冷え切ってしまったのか。はたまた学術書といえども流行り廃りがあるということなのか。
 100年読み継がれる本をつくるこころざしはこころざしとして、そのために、それが売り切れるまでに100年かかっていたら堪らない。
 専務イシバシが書店営業をして奥邃を案内したところ、ある書店の店長が、おたくの社長はよほどの資産家の生まれなんでしょうなあ。こんな、聞いたこともないような人の全集を出すんですから…と、まともに言われ、笑うわけにもいかず返答に困ったという。その話を聞き、ああ、おいらの家は資産家さ。田もあれば畑もある。秋田杉の山もある大富豪なのさとうそぶくしかなかった。とほほ。
 嘆いてばかりでも仕方がないので、『週刊読書人』に奥邃はじめ、哲学・思想関係の大広告をうちましたよ。お近くで入手可能な方は、ぜひ手にとって見てください。

妄想

 あこがれは数学。たとえば競馬。実際わたしは競馬をやったことがないから、もちろん妄想の域を出ないが、どの馬が一着でゴールするかを数学を用いて解けたら格好いいだろうなあと思った。その日出場する馬についてはもちろん、天候、土壌の具合、騎手の身長、体重、性格やら何やらをすべて事前に入力しておいて、アインシュタインみたいな天才的な頭脳でもって着順を割り出す。そんなことができたらなあと、けっこう真剣に考えていた。いまどきのコンピュータなら、それに近いところまでいけるんじゃないかしら。競馬は一つの例に過ぎないけれど、コンピュータでいろいろな問題を解こうとしている時代が今だとして、そうなると、ますますその間隙のところの言葉が重要になってくるような気もする。コンピュータで解けない問題を言葉がすくいあげる。
 でも、平行線は無限延で交わるなんてのは、数学よりも詩の言葉みたいだから、分けて考えるのは無謀かな。

あやまる

 ありがとうと感謝の気持ちを相手に伝えることは大事だし、それが人でなくても、たとえば自分の体やこころにお疲れさん、ありがとう、と日々の労をねぎらうことは、自分とゆたかにほがらかに付き合うための秘訣かもしれない。
 ところで、ありがとうと同様、大事な言葉に、ごめんなさいがある。このごろ見たり聞いたりした場面や話で、ごめんなさいに関わる素敵なエピソードをここで披露したいのだが、やはり差し障りがありそうだ。一般化して言えば、ごめんなさいと理屈抜きであやまることは難しい。なんで俺が、わたしがあやまらなければならないのさ、ならないのよ。あやまらなければならないのはあいつのほうじゃないか。事は「行列のできる法律相談所」の問題ではない。
 向こうに9割の非があり、こちらに1割しかないときでも、ごめんなさいとあやまれるか。なかなかだ。それでも言わなければならないときがある。ごめんなさい。ひとのこころはそういうことで動き始める。変に涙が流れてきてさ。悔しいみたいな気持ちもあるし。「上を向いて歩こう」は、そんなときにも合う歌かと思う。
 自分の非の率が低いと思っていて、思っているのに、ごめんなさいと素直にあやまれる人は偉い。

欽ちゃん

 テレビをつけたら欽ちゃんがでていた。旅番組で、北海道の紅葉を見にいくというもの。ゴールデンゴールズの問題もあったけれど、行く先々で出会う人々はみんな欽ちゃんが大好き。なんとなく見ていたのだが、ある場面で、さすがだなぁと唸った。
 ある店の主人は変り者、頑固者で通っている。タクシーの運転手からそう聞いた欽ちゃんは、さっそくその店へ。ドアを開けて入っていくや、店のご主人、「ああ、欽ちゃん」とは言ったが、「カメラは止めてください」と。取材は一切拒否なのだそうだ。ところがそれからの欽ちゃんの対応がすごい。「取材拒否だなんて、そんなことおっしゃらずに旦那、人と人との付き合いってことで…。ところで、何をつくっているの」と、カウンターの中へ入っていく。この辺のやりとり、前もって打ち合わせをしていたとも思えない。ご主人の断り方は静かだが断固たるもので、素人の演技であそこまでできるわけがない。そのうち近所のおばさんも加わって、「欽ちゃんがせっかく来てくれてそこまで言ってるんだから、いいじゃないか」。それでも店のご主人、ダメダメと手を横に振る。その間も、欽ちゃん、「へ〜、そうやってつくるの。へ〜。ところでこれは何?」と、実に巧み。あとへ引く姿勢を全く見せない。見ようによっては、強引。やりすぎ。無礼。ところがところが、ご主人、最後にとうとう折れて、「負けたよ」。
 となると、今度はこれも食べてみて、こっちも食べてみて、と次々に自分のつくったものを欽ちゃんに食べてもらおうと差し出す。人ってそういうものだねぇ。欽ちゃんも、頼みこんだ手前、負けじと口に入れては「洋風だね」とか「美味しいね」とか。垣根が取っ払われ、今度はまるで十年来の友人のよう。「ありがとね」と言って腹いっぱいになった欽ちゃんが店を出ていこうとすると、ご主人、欽ちゃんに握手を求めた。ご主人、ただ照れ屋なだけだったんだ。庶民派欽ちゃんの面目躍如。店のご主人がつくっているのは、クレープや大判焼き。中身は子供たちのリクエストにこたえて変ったものばかり。

メール

 賛否両論かまびすしいが、わたしはメール賛成派。仕事は別にして個人的にあまり利用しないし、もらうこともそれほど多くない。そんなふうだから、たまにメール着信の記号が画面に現れていたりすると、喜び勇んで開ける。行き付けの店のメールマガジンだったりするとがっかりする。
 出版人としては、たとえメールの文章でも推敲に推敲を重ね、なおかつ気の利いたワンフレーズでも差し挟もうと邪心が湧くものだから、なかなか送信ボタンを押せないで画面を睨みつけることがしばしばだ。そういう時に限って、電話がかかってくる。あわててボタン操作をするものだから、間違えて、推敲に推敲を重ね、今一歩のところで送信という寸前までいっていた苦労があっさり水泡と化す。あれは、相当こたえる。
 なんということのない簡単な操作で、落ち着いてうまくいくこともあるが、学習が身に付かず、やっぱりあわてて電話に出てしまい、作りかけの文章を消去してしまうミスをなかなか無くせない。

ある女性の場合

 女性の買い物に付き合うのを嫌がる世の男性が多いようだ。情報としてインプットされているだけかもしれないが。
 つい先日も、テレビで男性お笑い芸人一人と女性タレント二人がハワイで買い物という場面で、いかに女性が時間を忘れて夢中になるかを面白おかしく映し出していた。あれは、女性というものはそういうものだという作られたイメージに従っているだけかもしれないから、鵜呑みにはできない。
 わたし個人のことで言えば、女性の買い物に付き合うのはそれほど嫌いではない。好きとまでは言えないけれど、ある程度の好奇心を満足させられる。なんの好奇心かといえば、その女性がどういう種類の商品に魅せられるのかが手っ取り早くわかることはもちろん、買い物をするときの行動パターン、と言っては少々大げさだが、それが男性とはちょっとしたところでちょっとずつ違っていて面白い。
 かつて。ブランド好きの知人がいた。もちろん女性。特にどのブランドとこだわっているわけではなさそうだったが、いろいろ、わたしなど知らないブランドにも詳しく、総じてブランド好きと言ってもよさそうだった。慣れた手つきで商品を手に取り次々と見ていく。ごくごく庶民なのに、相当金持ちか、金持ちと付き合っている風情を漂わせていた。その姿を後ろから見ていて、この人は、価格はともかく、その物自体が可愛らしかったり好ましかったり自分に似合ったりを識別していると思われたから、それはそれで彼女のライフスタイルなんだろう、ブランド好きとちょっと揶揄した言い方でひとくくりにするのはどうかと思われ、少し距離を置いて眺めていた。ところが、あれはシャネルの店だったと思うが、新作のスーツ(ワンピース? 忘れた。まあ、いい。要するに、服)を彼女が見ていたとき、それこそコンマ何秒と思われる素早さで商品に付いている値札をつまんだ。値段など気にしない風だったのに、やっぱり気になっていたのかと思った。
 値段を気にするのは当然であり、ゆっくり普通に見ればいいのにと、わたしなど思うのだが、まるで電光石火のごとくにちらりと見たのにはそれなりの理由があったのだろう。分析すれば選択肢がいくつか考えられるだろうが、心理の奥をさぐっても仕方がない。そこはやはり身の程をわきまえ、とても手が出ないことを最初から知っていたということだったのかもしれない。わたしは、ただ目に留めただけで黙っていたが、いろいろな話題について、気持ちいいぐらいあけすけにズバズバ物を言う人だったから余計に、シャネルの店での一件から、なんだかいつもの彼女とは違う印象を受け、少しちぐはぐな感じがしたのと、彼女の中のおさな児のこころを見たような気がしたのを憶えている。