サラ・マクラクラン

 サラ・マクラクランのアイメイクにはくらくらする。それにあの声。倖田來未は、わたしも嫌いではない(むしろ好き)し、いい年をしてと揶揄されてもエロかわいいものには鼻の下を伸ばしもするが、比較の対象にならない。というよりも、倖田來未は倖田來未。サラ・マクラクランのくらくらメイクと声に性欲情してしまうのはどうしようもない。バラード。張った声を少しゆるめ、小さくした時のやさしいふるえはどうだ。ピュアな感性が垣間見えドキリとする。落ち込んでいるときでも聴ける大事なひとり。

眼の論理

 カメラマンの橋本さんは、手を入れて欲しいといって、自分の書いた文章をよくわたしに見せる。他社の雑誌や新聞に掲載するものであってもだ。わたしはそのことをひそかに誇りに思っている。
 橋本さんの文章はいわゆる名文とは違う。それが、わたしの手にかかると、あ〜らら、見違えるようになり、志賀直哉か永井龍男、はたまた小沼丹のような手だれの文章になる、などと、たわけたことを言いたいわけではない。編集者のわたしにそんな芸はない。
 橋本さんの文章は、いわゆる名文とは違うと言ったけれども、名文でないということもない。特殊な名文とでもいったらいいか。彼は、カメラマンとしての矜持とでもいうのか、律儀に見たものつかんだものしか書かない。逆にいえば、普通なら見逃してしまいそうなところを正確に見、それを書こうとする。そこには眼の論理とでもいったものが働いている。ところが、一読、何を見、どうしてそのことが眼に焼きつくほどの印象になっているのかが、書いたものからすぐに読み取ることは難しい。普通、そこまで見ないからだとも言える。それが、何度か文章を読み、手を入れていくうちに、橋本さんの眼の論理が炙り出されてきて面白いのだ。そこにはハッとする玉がある。おどろき、やりがいを感じるのはそういう時だ。やりがいがあってしたことが橋本さんに認めてもらえることがうれしいし、誇りに思うのだ。

沢尻エリカ?

 カネボウSALAのコマーシャルが気に入って、感想めいたことをここに書いたが、あれに出てくるタレントの名前が分からない。誰だろう誰だろうと思っていたら、先日、小料理千成へ来る馴染みのお客さんがわたしの隣りに座り、雑誌を開いた。何気なく目をやると、あっ、となった。SALAのコマーシャルに登場する女性にそっくりの写真が載っていたからだ。よく知ったお客さんだったから雑誌をちょっと借りて読ませてもらうことに。沢尻エリカ、1986年生まれとある。プロフィールがいろいろ記されていたが、SALAのコマーシャルのことには触れていない。そうすると人違いか。写真で見るとそっくりなんだけどなぁ。試しにグーグルで「カネボウSALA」と「沢尻エリカ」をキーワードにしてイメージ検索してみたが、出てこない。ふむ? 謎だ。
 イメージ検索でなく普通に検索したら出てきた。沢尻エリカで間違いない。

 日曜日、遅めに起き出し歯を磨きトイレに行き、柿の葉茶を煎れるなどしてボーとしているうちに昼近くになったので、初動がおかしい自分の体に鞭打って保土ヶ谷駅へ。電車で出かけるわけではない。駅ビルに食べ物屋が集中しているので、食事を作るのが面倒なときは、よく食べに行く。うどん屋に入り、中華風冷やしうどんと大豆ごはんの定食。900円也。店を出てFスーパーで買い物。蜜柑、りんご、レモン、ごま豆腐、秋刀魚。昼はまだ暑いが、朝晩の風はもう秋だ。

梅雨でもないのに

 ここ二日、出掛けに雨が降っていたから、おっくうだけど傘を差さなければならなかった。ところが二日とも昼にはもう晴れて、夕方はきれいな夕焼けまで見えていたから、面倒臭いので、傘を会社に置いてきた。今度は反対に、朝は晴れていて夕刻から降り出せばちょうどバランスがいいわけだが、そんなにうまくはいかないだろう。テレビをつけたらアンガールズが出ていて、ニ泊三日の列車の旅で十個の駅弁を食べ歩くという番組をやっていた。紅いジャージと青いジャージがあんなに似合うのは、アンガールズの二人を置いて他にはいないだろうと思われた。今日は曇り。

ニュアンス

 営業のマサキさんが初めてトップページに書いてくれた昨日の記事中、ふさわしい絵文字が適所に配されていたので、絵文字かわいいねと告げたら、「ありがとうございます」と。わたしはマサキさんのこの「ありがとうございます」が好きで、彼女は嫌だったかもしれないが、入社以来何度となく、本人の前でも真似し、そのニュアンスをつかもうと躍起になった。
 たとえば――
 わたしに三つ下の妹がいるとする。わたしと同じ田舎育ちなのに、妹はアケビやタンポポやアサガオの花には目もくれず、小さい頃から鮮やかな紅いバラの花が好きなのだった。彼女が小学四年生のときだから、わたしはすでに中学生。少し色気づいてきたわたしは、妹の誕生日に彼女の好きなバラの花をプレゼントしようと思い立ち、隣り町の花屋に出かける。わたしの村に花屋はなかったから。自転車を漕ぎ漕ぎ、やっと花屋に辿り着く。ポケットからお金を取り出し、「バラの花をください」。ところが、店の中にきれいな和服を着たおばさんがいわくありげにバラの花束を持って立っており、エプロン姿の店員が、「あいにくとバラの花はたった今、売り切れてしまいました」と言う。わたしはだまっておばさんの顔とおばさんが手にしているバラの花束を交互に見つめる。すると、おばさんが、「1本だけでもいいかしら。1本だけでゆるしてくれる?」。わたしはどぎまぎしながらも、うれしくて、差し出されたバラ1本をきつくにぎりしめ、「ありがとうございます」
 マサキさんの「ありがとうございます」は、たとえばそんなときの「ありがとうございます」なので、わたしは彼女の発するニュアンスをつかみたくて、役者がセリフを練習するように、「ありがとうございます」を何度も繰り返す。
 真似ることは、少し格好をつけて言えば、こころのかたちを自分の身にうつし取ることだ。師匠竹内敏晴は人の真似、正確には、人の姿勢を真似ることが本当に上手い。姿勢は、生きる、生きようとする勢いがかたちとなって現れる姿であり、竹内レッスンはそういう姿に触れる喜びと驚きの場でもあるのだろう。
 人それぞれのニュアンスをうつし取ることは、今風な言葉で言えば、いわゆる言葉以前のコミュニケーションの本質にかかわると言っても過言ではないだろう。

春風倶楽部

 小社PR誌『春風倶楽部』第13号の特集は「全集の魅力」。今月末を締め切りとし幾人かの方に原稿をお願いしたが、すでに数名の方から寄せられた。こちらが設定したテーマについて、どんな内容でどんなふうに書いてくださっているのか、どきどきしながら封筒を開ける。一読、なるほどとうなづくこともあれば、ふーと深い息が出ることもある。時には思わず大声で笑ってしまうことも。文章の力を改めて感じる瞬間だ。また、味読という言葉があるように、たしかに文章にはそれぞれ味があるものだ。