眼の論理

 カメラマンの橋本さんは、手を入れて欲しいといって、自分の書いた文章をよくわたしに見せる。他社の雑誌や新聞に掲載するものであってもだ。わたしはそのことをひそかに誇りに思っている。
 橋本さんの文章はいわゆる名文とは違う。それが、わたしの手にかかると、あ〜らら、見違えるようになり、志賀直哉か永井龍男、はたまた小沼丹のような手だれの文章になる、などと、たわけたことを言いたいわけではない。編集者のわたしにそんな芸はない。
 橋本さんの文章は、いわゆる名文とは違うと言ったけれども、名文でないということもない。特殊な名文とでもいったらいいか。彼は、カメラマンとしての矜持とでもいうのか、律儀に見たものつかんだものしか書かない。逆にいえば、普通なら見逃してしまいそうなところを正確に見、それを書こうとする。そこには眼の論理とでもいったものが働いている。ところが、一読、何を見、どうしてそのことが眼に焼きつくほどの印象になっているのかが、書いたものからすぐに読み取ることは難しい。普通、そこまで見ないからだとも言える。それが、何度か文章を読み、手を入れていくうちに、橋本さんの眼の論理が炙り出されてきて面白いのだ。そこにはハッとする玉がある。おどろき、やりがいを感じるのはそういう時だ。やりがいがあってしたことが橋本さんに認めてもらえることがうれしいし、誇りに思うのだ。