気晴らし

 ごろんと横になり、バラエティー番組をよく見る。きのうは「食わず嫌い王」というのをやっていた。トンネルズの二人がそれぞれ芸能人やらスポーツ選手など有名人を引き連れ登場し、好きな食べ物四品ずつ順番に食べる。中に一品だけ嫌いな食べ物があり、双方それを当てるというもの。
 嫌いな食べ物もいかにも好物であるかのように食べなければならない。嫌いであることを相手から悟られないように演じなければならない。テレビを見ながら、わたしもどれが嫌いな食べ物かを一緒に考える。きのうはハズレた。
 春なのに、なんだかじとじと一日雨が止まなかった日など、たわいもないそんな番組が気晴らしになる。

贈り物

 三越の包装紙で包まれたお菓子が届き、はて? と思って見たら、会社の大幅縮小に伴い全員解雇に近い大英断が下されるというので、さてどうしたものかと困り果て連絡してきた友人からのものだった。相談に乗って欲しいと言ってきたのは二月だったと思う。三月一杯まで営業し、四月からは5分の1だか10分の1だかに縮小するというので社員は戦々恐々としている状態だと聞いていた。
 じっくり話を聞き、過去の経験から参考になるようなエピソードを開陳し提案めいたこともしたが、その後彼女がどうなったかは知らずじまいだった。
 届いたお菓子を見、いずれにしても働き場所が決まったのだなと思い、ケータイに電話してみた。結局、彼女は規模を縮小した会社に残って働けることになったらしい。相談を受けたときの状況から今も彼女の胸にいろんなことが錯綜しているはずとは思ったが、就職難のこの時代、働き場所が確保されただけで、まずは良かったとしなければならないだろう。

ローリング・ストーンズ

 朝、桜木町駅で電車を降り、晴れた日には少しだけ遠回りになるが「みなとみらい」方面に出て、紅葉坂の交差点に向かうようにしている。ランドマークタワーをはじめ高いビルが次々と林立し、せっかくの広々とした景色が失われていくのは残念だが、空までは失われていない。ユニクロの前には色とりどりのパンジーが咲き、前を見、ふつうに歩いていても強い香りが鼻先を刺激する。
 京浜東北線のガードをくぐり交差点に立ったとき、斜め後ろから聞き覚えのある音が大音量で聞こえてきた。振り返らなくても、赤信号を前に居並ぶクルマのいずれかから洩れていることは明らかだった。ここは横浜だし、横浜銀蝿みたいなクルマでもいるのかなと想像した。振り返るのは面倒臭かった。
 わたしも赤信号で足止めを食らいながら、後ろから来る音を聞くともなく聞いていた。あぁ、ローリング・ストーンズの「ブラウン・シュガー」だとピンときて、わたしはやっと後ろを振り向いた。わたしの位置から三台後ろの、窓を閉めきったクルマからそれは流れてくるのだった。運転手はと見れば、ハンドルを両手で握りながら曲に合わせて太目の体を揺すっている。同時にクルマも揺れている。先日の来日コンサートの余韻にでも浸っているのか。
 信号が青に変わり、わたしは横断歩道へ進み、「ブラウン・シュガー」のクルマはと見れば、ミニスカートの女性がこれ見よがしにお尻を振り振り歩くような格好で左右に揺れながら紅葉坂をブルンブルン上っていった。

営業報告

 専務イシバシが一泊二日で愛知、岐阜と営業しに行った報告を聞く。営業の責任者ということもあって、確実に仕事を持って帰ってくる。さすがだ。誰にも真似できない。時間の使い方も実にそつがなく、報告を聞くだけで動きが見えるようだ。そう感じさせる報告ができるということはまた、営業担当としての力の証拠ともいえる。
 黙って報告を聞きながら、彼女がいろいろなところで勘を働かせていることに気づかされる。たとえばA大学は、地図上はそんなに辺鄙なところに位置しているわけではないにもかかわらず、交通の便が極めて不便だとする。事前にそこの大学の先生たちの専門を調べ、小社との相性について勘を働かせる。うん。仕事になりそうだ! 「勘」と言ったほうが手っ取り早いからそう言うのだが、これまでの多くの経験から得られた情報が彼女に集積されていて、必要に応じ自身に検索をかけると、集積された経験知から答えが出る。そういうことなのだろう。
 また、こういうこともある。人の話をじっくり聞くことは一般的には誠意ある行為だ。が、こと営業となると、一般的な行為が必ずしも誠意ある行為とは言えない場合だってある。そこらへんの微妙なニュアンスもイシバシの報告にはよく盛りこまれていて楽しい。つまり、相手の話が仕事につながる話かどうかということ。
 彼女の話を聞いているうちに、あることを思い出した。二十代の最後の年に初めてインドに行った。その後、数度、かの地を訪れているが、最初の旅がなんといっても一番印象に残っている。
 空港の外へ出るや否や、いろんな人から声をかけられた。たとえは悪いが、まさに蝿がたかって来る感じ。声をかけられるたびに、わたしは、「日本から来ました」だの、「いえ、結構です」だの、「予約してあるホテルに行きます」だの、「両替は済ませました」だの、「まだ分かりません」だのと、どんなナリをしたどんな顔つきの人にも「誠意」をもって答え、たどたどしい英語で話し、そしてとことん疲れた。当時のわたしには「人は外見で判断してはいけない」という日本の教育がとことん染みついていたのだろう。最初のインド行からいろいろ学ばせてもらったわたしは、その後いつの間にか、人を見る時に外見でかなり判断するようになった。インドでなくても。そして、そのことは決してそんなに悪いことではないような気にだんだんなってきた。むしろ、必要なことではないかとさえ思うまでに。
 短い時間の中で、言葉の意味も含め、どれだけ多くの情報を相手から引き出し対峙できるかが出会いの質を決める。むろん外見で人を判断するには覚悟が要る。緊張も強いられる。また、こっちも外見で判断されることを了としなければならない。そしてだんだん分かってきたことは、外見は、飾るだけのものではなく、それ以上のものが思わず知らず出てしまっているということ。飾っても仕方のない、無意味なことだってある。

今日すること

 このホームページのトップに「ゴールデンウィーク1日は読書にあててみては?」として3冊掲げられている。先日、この欄をあなたの工夫で既刊の書籍を宣伝・案内するコーナーにしてみてはと営業のOさんに声をかけたのを覚えてくれていて、さっそく更新してくれたのだ。倦まず弛まずのこういう努力が大事だ。
 ひとは誰でも、テンションが上がったときに動き、テンションが下がったときには動きたくないもの。しかしてテンションというのは自分ではどうしようもない。上がる時もあれば下がる時もある。ちょこっと曇っただけで精神までどんよりしたり。にもかかわらず、今日することを言い訳せずに、厭わずに、する。こういう自発性の芽がどんどん出てきて欲しい。そのほうが楽しいじゃないの。

奥邃の偉さ

 『新井奥邃著作集』がいよいよ完結を迎えようとしている。小社の土台というか柱というか、中心的刊行物だ。これを出すために春風社を起こしたと言っても過言ではない。それなのに、営業の責任者である専務イシバシは、前の出版社で一緒の時からずっと(今も)、なんで三浦がそんなに奥邃に惹かれるのか、奥邃のどこがそんなに偉いのか、わたしには分からない、分からない、分からない。分からないと頑なと言いたくなるほどに言いつづけてきた。
 とある大学から呼ばれ、奥邃について語って欲しいと頼まれたことがあった。わたしは研究者ではないし、大学の先生たちを前にして語る言葉を持ち合わせないとお断りしたのだが、なぜそれほどまでに奥邃に惹かれるのか、出版に至る経緯についてだけでもと仰るから、それならということで出かけた。ひとしきりわたしの話が終わって質疑応答の時間になった時、イシバシが、三浦とは十何年の付き合いになるけれど、そして付き合いの初めから奥邃について聞かされてきたけれど、わたしには未だにどこがそんなに偉いのか分かりません、と言った。水を差すような彼女の発言にそのときは頭に来たが、よくよく考えてみると、それは分からないことを分かった振りをせずに、はっきりと分からないと言える彼女の素直さであり偉さだった。皮肉でなく。
 そんなこともあって、研究者とは別に、奥邃の偉さについて改めてつらつらと考えるようになった。
 今、思うところあって吉野秀雄の『良寛』を読んでいる。吉野はその中で詩人としての良寛を強調している。言葉の力だと思った。わたしは奥邃の文に触れ、それにやられた。いや、惹かれたのだろう。
 イシバシが分からない分からないと言い続けてくれたおかげで、宗教家、思想家としてよりも、まず詩人としての奥邃に眼が向いていたのだと今になってようやく気づかされた。

ジャンプして穿く?

 昨日の「よもやま」を読んでくれた友人(女性)からコメントをいただいた。あまりにウケたので、ここで勝手に紹介させていただきたい。
 ええ、昨日の会話は、昼食後、前を歩く女性がパツパツの状態でジーンズを穿いているのを見たわたしがそれと指摘したのに対し、イシバシが「仰向けに寝て穿く」と回答したことがそもそもの眼目であったわけだが、わたしにとっては驚きを伴う「へ〜」なのに、イシバシの話によっても、友人の話によっても、そんなに驚くことではないことが判明した。
 ところで、友人からのさらなるメールで「ジャンプして穿く」場合もあることを知らされた。これには驚いた。歩いている時だったので、つい、アハハ…と声を出して笑ってしまった。電車の中だったら変質者に間違われていただろう。
 ジーンズに限らずズボンは立って穿くものとばかり思ってきたが、それはどうも固定観念にとらわれた貧しい考え方のようで、「穿く」ことを究極の目的にした場合、そこには汗みずくの努力とバリエーションが存在することを今回新たに知らされた。イシバシと友人にこころから感謝したい。