奥邃の偉さ

 『新井奥邃著作集』がいよいよ完結を迎えようとしている。小社の土台というか柱というか、中心的刊行物だ。これを出すために春風社を起こしたと言っても過言ではない。それなのに、営業の責任者である専務イシバシは、前の出版社で一緒の時からずっと(今も)、なんで三浦がそんなに奥邃に惹かれるのか、奥邃のどこがそんなに偉いのか、わたしには分からない、分からない、分からない。分からないと頑なと言いたくなるほどに言いつづけてきた。
 とある大学から呼ばれ、奥邃について語って欲しいと頼まれたことがあった。わたしは研究者ではないし、大学の先生たちを前にして語る言葉を持ち合わせないとお断りしたのだが、なぜそれほどまでに奥邃に惹かれるのか、出版に至る経緯についてだけでもと仰るから、それならということで出かけた。ひとしきりわたしの話が終わって質疑応答の時間になった時、イシバシが、三浦とは十何年の付き合いになるけれど、そして付き合いの初めから奥邃について聞かされてきたけれど、わたしには未だにどこがそんなに偉いのか分かりません、と言った。水を差すような彼女の発言にそのときは頭に来たが、よくよく考えてみると、それは分からないことを分かった振りをせずに、はっきりと分からないと言える彼女の素直さであり偉さだった。皮肉でなく。
 そんなこともあって、研究者とは別に、奥邃の偉さについて改めてつらつらと考えるようになった。
 今、思うところあって吉野秀雄の『良寛』を読んでいる。吉野はその中で詩人としての良寛を強調している。言葉の力だと思った。わたしは奥邃の文に触れ、それにやられた。いや、惹かれたのだろう。
 イシバシが分からない分からないと言い続けてくれたおかげで、宗教家、思想家としてよりも、まず詩人としての奥邃に眼が向いていたのだと今になってようやく気づかされた。