営業報告

 専務イシバシが一泊二日で愛知、岐阜と営業しに行った報告を聞く。営業の責任者ということもあって、確実に仕事を持って帰ってくる。さすがだ。誰にも真似できない。時間の使い方も実にそつがなく、報告を聞くだけで動きが見えるようだ。そう感じさせる報告ができるということはまた、営業担当としての力の証拠ともいえる。
 黙って報告を聞きながら、彼女がいろいろなところで勘を働かせていることに気づかされる。たとえばA大学は、地図上はそんなに辺鄙なところに位置しているわけではないにもかかわらず、交通の便が極めて不便だとする。事前にそこの大学の先生たちの専門を調べ、小社との相性について勘を働かせる。うん。仕事になりそうだ! 「勘」と言ったほうが手っ取り早いからそう言うのだが、これまでの多くの経験から得られた情報が彼女に集積されていて、必要に応じ自身に検索をかけると、集積された経験知から答えが出る。そういうことなのだろう。
 また、こういうこともある。人の話をじっくり聞くことは一般的には誠意ある行為だ。が、こと営業となると、一般的な行為が必ずしも誠意ある行為とは言えない場合だってある。そこらへんの微妙なニュアンスもイシバシの報告にはよく盛りこまれていて楽しい。つまり、相手の話が仕事につながる話かどうかということ。
 彼女の話を聞いているうちに、あることを思い出した。二十代の最後の年に初めてインドに行った。その後、数度、かの地を訪れているが、最初の旅がなんといっても一番印象に残っている。
 空港の外へ出るや否や、いろんな人から声をかけられた。たとえは悪いが、まさに蝿がたかって来る感じ。声をかけられるたびに、わたしは、「日本から来ました」だの、「いえ、結構です」だの、「予約してあるホテルに行きます」だの、「両替は済ませました」だの、「まだ分かりません」だのと、どんなナリをしたどんな顔つきの人にも「誠意」をもって答え、たどたどしい英語で話し、そしてとことん疲れた。当時のわたしには「人は外見で判断してはいけない」という日本の教育がとことん染みついていたのだろう。最初のインド行からいろいろ学ばせてもらったわたしは、その後いつの間にか、人を見る時に外見でかなり判断するようになった。インドでなくても。そして、そのことは決してそんなに悪いことではないような気にだんだんなってきた。むしろ、必要なことではないかとさえ思うまでに。
 短い時間の中で、言葉の意味も含め、どれだけ多くの情報を相手から引き出し対峙できるかが出会いの質を決める。むろん外見で人を判断するには覚悟が要る。緊張も強いられる。また、こっちも外見で判断されることを了としなければならない。そしてだんだん分かってきたことは、外見は、飾るだけのものではなく、それ以上のものが思わず知らず出てしまっているということ。飾っても仕方のない、無意味なことだってある。