桜満開

 小社が入っているビルの斜め前が県立青少年センターで、ゴミが飛ばぬようにシートでカバーし改装工事をしてきたが、それがようやく終りにちかづいたらしく、紅葉ヶ丘の風情によくマッチし落ちついた色の建物が姿をあらわした。今週になって気温が上がり、そんなに多くはないけれど、丘のあちこちに植えられた桜は満開。週末まで持つのかどうか、今が盛りと咲いている。歩道を歩いていると桜の花びらが散って、これはこれで眼を楽しませてくれるし、遠くに見えるランドマークタワーも、変化するはずがないのに、ほかの季節とは違って見えるから不思議だ。変化するはずがないと書いたが、そうとばかりもいえないか。人づてに聞いた話で記憶が定かではないが、ある寺の西塔の修復工事にあたった大工によれば、東塔とでは高さが1メートルほど違っている。千年たてば高さがちょうど同じになる…。ビルがそんな時間に耐えられるとも思えないが、木ほどではなくても、時間による変性は免れないだろう。季節によってランドマークの見え方が違うのは、周りの風景とこちらの気分によるとばかりは言えないようだ。

「かも」と「もん」

 若者ことばに侵食されている風の昨今の日本語だが、気になるふたつの言い方に「かも」と「もん」がある。
 「かも」は今や市民権を得て年齢にかかわらず多くの方がつかっているようだ。「かもしれない」の「かも」なのだろう。が、微妙に元の「かもしれない」とはニュアンスが異なり、あどけなさ、舌っ足らずさ、可愛らしさが醸し出され、つかいたくなる気持ちもわからないではない。
 だが「もん」となると、これは相当にやばいかもしれない。「かも」よりもっとあどけなく、ふたつみっつの子供がつかっている分には問題ないが、大の大人がつかうとなるとかなり危険だ。
 前にもここで紹介したことのあるモモさんという風俗嬢のサイトを見ていたら、接した客のなかにこのことばをつかう男がいたそうだ。その男、大事なある場面になって「○○○したいもん」と言ったらしい。「○○○したいもん」。
 ディズニーランドに行きたいもん、チョコレートパフェが食べたいもん、こんなのいらないもん、などと、子供が主に母親に甘え、ねだるときのことばを大人がつかっていいのは、かなり当事者同士が危険かつ親密であることを前提とする。男、なにを勘違いしたのか、モモさんに向かい一度ならず二度までも「○○○したいもん」。モモさん、そこは商売上うまくあしらったそうだが、こころのなかでは、テメーが言っても可愛くねえ! キモいだけなんだよおおおお!!! と叫んだそうだ。
 おおやけの場においてわたしは「かも」も「もん」もつかったことはない(と思う)。が、プライベートとなると、とたんに自信がなくなる。たぶんないとは思うが自意識が薄れ幼児化し、甘えて「かも」だとか「もん」だとかを発しなかったとは言いきれない。酒が入っているときがヤバイかも!

テンパス・フュージット

 恩師のT氏が拙宅に一泊し、翌朝、飯島耕一さんの最新詩集『アメリカ』に話が及んだので、バド・パウエルの『ジャズ・ジャイアント』から「テンパス・フュージット」をかけた。
 ものすごいスピードで演奏されるこの曲の演奏時間はわずか2分26秒。CDをかけて間もなく電話が鳴った。T氏を部屋に残し隣りの部屋に行った。秋田の父からだった。しばらく話をし、受話器を置いてT氏のいる部屋に戻った。
 と、T氏の表情が変わっているのがはっきりとわかった。きけば、演奏を聴いているうちに目頭が熱くなったのだという。子供が遊んでいるような、そのまた奥にあるものがふわ〜っとでてくるような… うまく言えない…。その後、テンポが少しゆっくりとなり低い音になってまた感じが変わったが…。
 出社後、ジャズ好きの若頭ナイトウにその話を伝えた。若頭いわく、あのCDをいままで300回は聴いているけれど、そんなことはなかった、と、いたくショックを受けている。300回も聴くからだよ、と慰めたが、興奮冷めやらぬ様子で、だいたいアレを聴いて涙がにじむという話をはじめて聞いた、と、わたしの慰めは一向に功を奏さず、さかんに、ふむ、ふむと唸っている。からだが主体ということを考えさせられるできごとだった。あとからT氏がエド、エド…、とおっしゃるから、エドでなくバド、バド・パウエルです、と申し上げたが、なんの予備知識もなく感動しているT氏のやわらかさに今更ながらに驚かされた。T氏は80歳の誕生日を迎えたばかり。

保土ヶ谷駅

 恩師のT氏を迎えに夜、保土ヶ谷駅に行った。休日の9時を過ぎていたから、ひともちらほらとしかいない。わたしは改札の正面に立ち、階段のほうを睨むようにしていた。
 うしろでなにやら声がしたので振り向くと、初老の男と女がいけない抱擁をしていた。そんなにまでしなくても、と思った。ふたりとも相当酔っているようなのだ。別れのことばを言っては抱き合い言っては抱き合いしていた。ふたりを勝手にさせといて、わたしはまた体をもどし、階段のほうを睨んだ。T氏はまだ現れない。
 いけない男が改札を抜け、わたしの視界に入ってきた。後ろを振り向き振り向き、手を上げたり、頭と両腕をだらりと下げたりしながら、蟹股の脚を階段に向けて歩き、視界から消えた。振り向くと、見送った女は手のひらで二、三度、顔を洗うようにこすると、回れ右をして階段を下りていった。途中、体をぐらりと揺らし、手摺りにつかまって、ダ、ダ、ダダダダ、ダダ、ダ…、と、不規則なリズムで歩をすすめ、やがて閉店したスーパーのほうへ姿を消した。体を戻し、またわたしは階段のほうを睨む。その時だ。目の前に大きな蟻地獄が出現し、さっきの男と女がずりずりと引きずられていく姿を見た気がした。
 下で電車の到着する音がする。蟻かと思いきや、ぞろぞろと現れたのは人間で、変な妄想を振り払うべく、わたしはテレビドラマのように頭を振った。と、サッと手を上げる人がいて、見ればT氏だった。
 改札を抜けたT氏が帽子を脱いでわたしにお辞儀をした。「お疲れさま」と言ったわたしの顔が、蟻になってやしまいかと一瞬心配になり、顔が火照った。T氏は何もおっしゃらなかったから、蟻の顔ではなかったのだろう。歩道橋を渡り、国道1号線沿いのタクシー乗り場でタクシーを拾い、山の上へ向かった。

ピンクな気分

 横浜の街を歩いていたら女性の着ている服、春のコート、ネクタイも、やたらとピンクが多く、目に付いた。今年の流行なのだろう。流行のものに触れていいなあと思えるということは、どこかにだれか天才がいて、今年の気分をいち早く察知しているのか。
 本で読んだか人づてに聞いたか忘れてしまったが、西陣織の有名な店主が毎年パリコレに出かけるという。その話を聞いたあるひとが、世界が違うのでは? と質問したところ、かの店主は、パリコレに出かけることでその先の流行を知る、と答えた。パリコレで発表されたエッセンスが十倍薄められて日本へ上陸し、さらに十倍薄められてその年の流行になるから、と。今はもうその話は通用しないのかもしれないが。
 もうひとつ、ピンクで思い出すのは、なんといっても岡崎京子の傑作マンガ、ワニも登場する少女の哀しく切ない物語『ピンク』。愛と資本主義の極北。今は亡き師匠安原顯さんにおしえられ読んだのが最初だった。
 ともあれ、ピンクな気分がわたしのこころにも染みてくる今日この頃である。

性格

 武家屋敷ノブコと昼食を食べに行ったときのこと。二人がけの小さなテーブルに男と女が向き合い、15センチほどの距離を置き、その奥の四人がけのテーブルがひとつだけ空いていた。ほかのテーブルはぜんぶ客で埋まっている。わたしと武家屋敷はこれ幸いに、手前の男女にことばをかけ、うしろを通させてもらい壁に接した奥のテーブルに着き、メニューを見てそれぞれ好きなものを注文した。
 しばらくして、夫婦であろうか老齢の男女が店に入ってきた。男のほうが「座るとこないね、座るとこないね」と言った。七十代後半から八十がらみだろう。わたしはその男のほうを見た。男は狭い店内を何度も見まわし、「ダメだね。座るとこないね」と言った。「出よう」と妻に言い、それでもあきらめきれない様子だった。口の周りに泡が乾いてはりついている。
 待つでもない帰るでもないふたりの老人を見、店の主人が奥から「すみませーん!」と声をかけた。と、横にいた中年男性が、わたしと武家屋敷が座っているテーブルを差し、「座って待っていればいいじゃないですか。すぐですよ」と声をかけた。「どうする?」「待ってましょうか」老夫婦は身をちぢめ、それでも狭くて体を通すことがかなわず、声をかけた男性とその向かいの女性が箸を置き立ちあがり、やっとテーブルの間を通りぬけてわたしたちのテーブルに着いた。わたしは半身になり、壁に体を押し付けた。
 やがて、老夫婦に声をかけたくだんの中年男性と連れの女性は食事を終え、帰っていった。老夫婦は「注文取りにこないね」「ええ」とことばを交わしたあと、男のほうが体をねじり厨房に向かい「おーい」と声をかけた。女将さんが「すみませーん。少々おまちくださーい!」と答えた。わたしの隣りに座っていた老婦が「こちらの席へ移りましょう」と言って、中年の男女がいた席へ体をずらした。すると、年老いた夫が、「馬鹿。テーブルの片付けが終っていないところに座って、おまえが食べたと思われたらどうする」と真顔で言った。わたしはもう一度その男の顔を見た。口の周りの白い泡は忘れられたなぎさを彷彿とさせ、しょっぱそうでどうにもやりきれない。ようやく注文を取りにきた女将さんに向かい「卵どんぶりをふたつ」と男は言い、片付いたテーブルを見遣り、サッと体を移動させた。

湖愁

 松島アキラのヒットソング。シングルレコードが昭和36年発売だそうだから、わたしはすでに生まれていて、父や叔父を真似て三橋美智也のものなどを歌っていた頃だ。
 「湖愁」がそんなにヒットしたのなら、当時わたしの耳にも入っていてよさそうなものだが、トンと記憶にない。昭和36年といえば、家にまだテレビが入っておらず、ひょっとして父や叔父の好みに合わず口ずさむことがなく、それで、知らずにきてしまったのかもしれない。いい歌だなあと思ったのは、コットンクラブに来るKさんやIさんが歌っていたからだ。
 ゆっくりと物静かに始まる曲は「かわいあの娘よ さようなら」で切なさの極をむかえる。失恋の歌だ。歌謡曲っていいなあと思う。あたりまえだが、KさんとIさんではそれぞれ歌い方が異なる。それぞれ味がある。声も、Kさんのそれは歌手で言ったら守屋浩にちかく、Iさんのそれは橋幸夫にちかい。Kさんが歌えばKさんの「湖愁」だしIさんが歌えばIさんの「湖愁」だ。同じ歌でもおのずとニュアンスが違う。それを聴き分けるのもたのしい。おふたりとも十代の頃だろうから、思い出と重ね合わせて歌っておられるのかもしれない。
 自分がくぐってきた時間なのに、ちょっとした掛け違いで今まで知らなかった。こういうことがたくさんあるのだろう。