『ハイジ』のこと 1

 

矢川澄子さんが訳されたヨハンナ・シュピーリさんの『ハイジ』(福音館書店)
がおもしろかったので、そのながれで、
川島隆さんの『ハイジの生みの親ヨハンナ・シュピーリ』
を読んでみました。こちらは学術書です。
学術書のおもしろさを堪能しました。

 

ここまで、シュピーリ作品に描かれた(あるいは描かれなかった)
労働者と労働運動の像をみてきたのは、
政治的なプログラムとイデオロギー性を暴き出すことで、
シュピーリという作家を現在の視点から断罪するためではない。
一見すると「無害な」装いの児童文学やラブストーリーが、
いかに政治的なものと縁を結びうるかを説明するのに、
これらの作品が適しているからである。
文学はしばしば、最も非政治的に見えるときにこそ、最も強く政治性を発揮する。
そしてまた、
文学とはさまざまな読みに「開かれた」ものでもある。
例えば「ゴルトハルデ」作中のレージとトビの論争を読んだとき、
どちらの主張に肩入れするかは読む側の自由だ。
経済格差を告発しながら政治変革を求める青くさいトビの主張に、
つい説得力を感じてしまう読者もいるだろう。
作者の意図がどうであれ、読者はそれに従う必要はない。
作者の意図を超えた政治的メッセージを受け取らせる可能性を常にはらみながら、
いわば運を天に任せて世に問われるのが、文学なのである。
(川島隆[著]『ハイジの生みの親ヨハンナ・シュピーリ』青弓社、2024年、p.169)

 

ジャンルにかかわらず、ふるいものを読んでいていつも感じるのは、
どんなにすぐれた書き手でも、
その土地、その時代の価値観から抜けでることはむつかしいのだなぁ、
ということ。
そのことと裏腹に、
書き手が意識してか無意識なのかはともかくとして、
その土地、その時代の価値観を超え、
いまにひびいていると感じられる文に出あうことがあります。
そこがおもしろい。

 

・春眠や本で知りたるアルプスに  野衾