世にいわれる児童文学なるものを、わたしは子どものころは読まなくて、
はたちを過ぎてから読みはじめました。
さいしょはミヒャエル・エンデさんの『モモ』
ではなかったかと思います。
子どものときに読まなかったので、
比較することはかないませんけれど、
いわゆる児童文学というのは、児童文学かな?
「児童」文学というにはもったいない、もっとふかく、
ひろい伸びやかな世界をえがいていて、
おとなも(おとなこそ)読んでたのしい本ではないかと思います。
アメリカ・カトリック教会の児童文学賞であるリジャイナ賞を受賞したときの挨拶で、
エリナーは、
夜の帳が降りてクローケー場の芝生の上をさまよい歩いたときのことを、
こう描写している。
子供たちの笑ったり、甲高く叫んだり、からかったりする声が、
夕餉のわが家へと、だんだんちいさくなっていきました。
ハンモックにはだあれもいません――
まあ、たいへん、あの小さなおんなのこの人形がなかに転がっています。
誰かが思いだしてくれるまで忘れられて。
しかしそれは、
これまでもいつもそこに転がっていたし、
これからさきもいつまでもそうしているでしょう。
そして同じように
林檎の木の下にはおもちゃの斑の馬が、
いま夕餉の食卓にいる子供たちがその晩年になって、
椅子に座って夕日を浴びにそとへでてくるまで、
そこにいつまでも置かれているでしょう。
そのときわかったのは――いまでもそう思っていますが――
子供時代は永遠の状態のひとつであること、
そして『わたしたちはその始めの状態へ戻っていくのだ』
ということです。
(アナベル・ファージョン[著]吉田新一・阿部珠理[訳]
『エリナー・ファージョン伝 夜は明けそめた』筑摩書房、1996年、p.305)
すばらしい、すてきなあいさつだと思います。
やわらかくあたたかい、ファージョンさんの深いこころが伝わってきます。
野の花も、空も川も、山も、化石や石ころも、
小鳥たちの声も、
年を重ねるにつれ、ますます光をつよくしてくるようです。
・差し出して母の笑顔や猫柳 野衾