エリナー・ファージョンさん 2

 

世にいわれる児童文学なるものを、わたしは子どものころは読まなくて、
はたちを過ぎてから読みはじめました。
さいしょはミヒャエル・エンデさんの『モモ』
ではなかったかと思います。
子どものときに読まなかったので、
比較することはかないませんけれど、
いわゆる児童文学というのは、児童文学かな?
「児童」文学というにはもったいない、もっとふかく、
ひろい伸びやかな世界をえがいていて、
おとなも(おとなこそ)読んでたのしい本ではないかと思います。

 

アメリカ・カトリック教会の児童文学賞であるリジャイナ賞を受賞したときの挨拶で、
エリナーは、
夜の帳が降りてクローケー場の芝生の上をさまよい歩いたときのことを、
こう描写している。

 

子供たちの笑ったり、甲高く叫んだり、からかったりする声が、
夕餉のわが家へと、だんだんちいさくなっていきました。
ハンモックにはだあれもいません――
まあ、たいへん、あの小さなおんなのこの人形がなかに転がっています。
誰かが思いだしてくれるまで忘れられて。
しかしそれは、
これまでもいつもそこに転がっていたし、
これからさきもいつまでもそうしているでしょう。
そして同じように
林檎の木の下にはおもちゃの斑の馬が、
いま夕餉の食卓にいる子供たちがその晩年になって、
椅子に座って夕日を浴びにそとへでてくるまで、
そこにいつまでも置かれているでしょう。
そのときわかったのは――いまでもそう思っていますが――
子供時代は永遠の状態のひとつであること、
そして『わたしたちはその始めの状態へ戻っていくのだ』
ということです。
(アナベル・ファージョン[著]吉田新一・阿部珠理[訳]
『エリナー・ファージョン伝 夜は明けそめた』筑摩書房、1996年、p.305)

 

すばらしい、すてきなあいさつだと思います。
やわらかくあたたかい、ファージョンさんの深いこころが伝わってきます。
野の花も、空も川も、山も、化石や石ころも、
小鳥たちの声も、
年を重ねるにつれ、ますます光をつよくしてくるようです。

 

・差し出して母の笑顔や猫柳  野衾

 

エリナー・ファージョンさん 1

 

はっきりとはおぼえていませんが、五十歳を過ぎたころ(すこし前だったか?)
から、
石井桃子さんが翻訳した児童文学に親しみ、
そのながれで、
尾崎真理子さんの『ひみつの王国 評伝 石井桃子』を読みました。
エリナー・ファージョンさんのことが視野に入ってきたのは、
尾崎さんの本を読んだことが、
きっかけだったと思います。
『ムギと王さま』『リンゴ畑のマーティン・ピピン』
をたのしく読みました。
となると、伝記好きのわたしとしては、
ファージョンさんの人となりをさらに知りたくなり、
姪っ子のアナベル・ファージョンさんが書いた
『エリナー・ファージョン伝 夜は明けそめた』を読んでみました。
本の帯の背に「天衣無縫の人生」
とあります。

 

すでに六十歳をこえてふとっていたけれども、
エリナーはあいかわらず世間一般のしきたりにはまったくしばられず
自由に振る舞っていた。
ある日、
窓拭き人がやってきて、はしごを使って家の表側の窓を拭きはじめた。
ところが、
じきに彼はいそいではしごを下りて、
お勝手にいるテレサ・ドッズのところへやってきて叫んだ。
「寝室の窓が拭けません。すっぱだかの女の人が中にいるんですよ」
「かまわないわよ。
ファージョンさんはいっこう気になさらないから」
とドッズ夫人は叫んだ。
「だけんど、あんな人がいて、どうやって部屋ん中に入って、
窓の内側を拭けるんですか? わたしゃできません」
窓拭きはきっぱり言った。
それで
テレサ・ドッズも、エリナーに部屋着を着るよう説得しなければならなかった。
そして、やっと若い窓拭きはふたたびはしごをのぼった。
(アナベル・ファージョン[著]吉田新一・阿部珠理[訳]
『エリナー・ファージョン伝 夜は明けそめた』筑摩書房、1996年、p.269)

 

まさに天衣無縫。六十をすぎて、すっぱだかのファージョンさん。
若い窓拭き職人さぞやおどろいたろうなぁ。
うらおもてがないというか、
なんというか、
ファージョンさんをますます好きになりました。

 

・春泥や待ちきれなくて自転車を  野衾

 

手と手

 

先週から今週にかけて三連休でしたが、
やすみまえにお願いしていた組版の仕事がちょうど上がってきましたので、
すこしずつこなしていこうのこころで、
三日間、
校正校閲の仕事にかかりました。
二日目の仕事がえり、
保土ヶ谷橋の交差点に向かう夕刻の歩道を歩いていたとき、
反対方向から若いカップルが近づいてきました。
だんだん声が大きくなります。
寄り添って歩くカップルの声の主は男性のほうでした。
電車が目の前を通りすぎるときのように、
ドップラー効果よろしく、男性の声がわたしの耳をかすめて通りすぎます。
ほんの一瞬のことでしたが、
すこし理屈めいたことを話しているようでした。
けして愉快な話ではなさそうです。
寄り添う女性は、
深読みかもしれませんが、ほんのちょっと悲しそうにも見えます。
歩を止め、ふり返りざま、しばしふたりを見送りました。
と、
ふたりは手をつないでいました。
ああいう口調の話をし、
耳元で話を聞き、
それでも手をつないで歩く。
つないだ手と手は離さない。ゆるぎない。
わたしはまた自分の歩く方向へゆっくり歩きだします。

 

・春風にささめき交はす野の花よ  野衾

 

忘れるために読む

 

じっさいのところは、読んで忘れた、だけなのですが、
あることから、ん!? 待てよ、
ひょっとしたら、もしかして、忘れるために本を読んでいるのかな、
と思いたくなりまして。
あることとは、4回連続の対談、というか聞き書き。
S先生からお声がけをいただき、S先生が聞き役になってくださり、
問われるままにわたしが語ります。
いずれなんらかのかたちにまとめたいと思います。
すでに2回おこないました。
ぜんたいのくくりは「本のある世界」(仮題)。
1回が2時間から、2時間超。
1時間半ぐらいをめどに、といって始めるのですが、
だんだんノッてきて、時計を見れば、だいぶ超過していることに気づきます。
前もっての台本らしきものはなく、
先生の質問に、
その場でなるべく正直に答えていくわけですが、
話していると、ひょいっ、ひょいっ、
っと、
これまでのさまざまな体験、
あるいは、
そのときどきに読んできた本のことが思い出されてきて、
体験も読んだ本も過去のことなのに、
結びつき方があたらしく感じられ、じぶんでも、
ちょっとおどろきます。
忘れてしまったことが、いわば種となってわたし自身に蒔かれ、
意識の下で根を伸ばし根茎を形成しているような。
それで、
ん!? 待てよ、ひょっとしたら、もしかして、
となりました。
こんしゅう3回目をおこないます。

 

・梅が香やまなこ閉づれば五百年  野衾

 

山田洋次さんのこと 5

 

クロード・ルブランさんの本がおもしろすぎて、引用を重ねてきましたが、
そろそろ終りにしたいと思います。
さらに引用したい箇所はいくつかある(たとえば『映画とは何か』
の著者アンドレ・バザンさんに触れている箇所(pp.159-160)や
隠れキリシタンの地であった五島列島をロケ地に選んだことへの言及
(pp.404-405)など)のですが、きりがないので。

 

洋次の作品を見る視点が変わったことは、パリの人々に限ったことではない。
もともと彼らのほとんどははじめて見たのだが。
2022年7月、
ガンを患う坂本龍一は雑誌『新潮』に闘病日記の連載を始めた。
その初回で、
いくつかの歌についての考察をした後、洋次の人気シリーズに少し触れている。
「病気でもしなければこんな曲を良いとは思わなかったかもしれないし、
歌詞の内容に耳を傾けられるようになったのは歳のせいもあるかもしれません。
だから、
演歌だってまだきちんと聴いていないだけで、
今なら若い頃とはまた違った受け止め方をできる可能性もあると思います。
寅さんだってそうですね。
『男はつらいよ』シリーズの新作が毎年のように作られていた80~90年代、
ぼくたちの世代はそんな映画には目もくれずに
『ハイテク』だの『ポストモダン』だのと言いながら、
東京の街で遊び回っていた。
だけど、
その頃の寅さんも、
昭和という輝かしい時代が既にもう取り返しのつかない段階まで来てしまった
という、郷愁のテーマを扱っていたわけですね。
そのノスタルジックな感覚は、より敷衍して言うなら、
変わりゆく地球全体の環境問題を考えることとも繋がります。
だから自分が年を取った今ではもう、
『男はつらいよ』のタイトルバックに江戸川が映るのを見るだけで、
号泣してしまいます」。
これは、
国民の意識に決定的に刻まれた山田作品の深い印を、
もっとも感動的に承認した証言のひとつだと思う。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、p.745)

 

坂本龍一さん、こんなことを書かれていたんですね。
「『男はつらいよ』のタイトルバックに江戸川が映るのを見」て、
目頭が熱くなるとか、ぽろぽろ涙を落とすとかではなく
「号泣してしまいます」というのは、よほどです。
YMOもふくめ、坂本さんがつくりあげてきた音楽にも、
ノスタルジックな感覚があると思います。

 

・探梅行天に届けと子らの声  野衾

 

山田洋次さんのこと 4

 

わたしの実家は兼業農家で、子どものころから、農家の仕事を見てきました。
親にいわれれば、子どもでもできる仕事を手伝ったりもしました。
共同の田植えのときに、植えすすむ人が手をあげるのを見、
あぜ道から苗束を放り投げたり。
ことば以上に、家業から教わるものは少なくないようです。

 

橋本の事務所が仕事場だった。ひと区切りごとに洋次はアイデアを記し、
鉛筆を握りしめたまま「師匠」に丸ごと渡す。
すると橋本はいくつかコメントし、書き直しを求める。
このやりとりは橋本が満足するまで続いた。
「そんなことが毎日毎日続くわけです」。
夕食ではもう仕事の話はしなかった。
洋次は橋本のこれまでの歩みや、東京の印象などを尋ねた。
橋本は地方出身だったのだ。
こうした付き合いは、
「私にとって橋本さんは、まごうかたなき『師』なのです」
と言うほどの強いきずなを育んだ。
2か月近くして、二人の脚本は完成した。
執筆者どうしが総括をするときが来たのだ。
「ぼくが
『脚本を書くという仕事は、なにか才気にまかせて書く、
といった格好いい仕事のような気がしていたけれど、
本当は油にまみれて働く労働者の仕事のようなものなんですね』(と言うと)
そしたら橋本さんが笑いながら、
『いや、お百姓に近いんじゃないか』と答えました。
『タネをまいて、芽が出て、天気を心配したり、
水の心配しながら作物を育てていく。
まあ、そういう忍耐のいる、いや、忍耐だけが頼りの仕事だよ』」。
橋本の教えの本質をつかむことができたからこそ、
洋次は脚本家としても成功したのだ。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、p.107)

 

文中の橋本とは、橋本忍さん。脚本家で、山田洋次さんが師と仰ぐ方。
生まれたところは、
兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居)。
家業は小料理屋だったとのことで、
子どものころは、家業を手伝っていたそうです。
わたしがこの仕事(編集)をするようになって35年たちましたが、
このごろあまり言わなくなりましたけど、
編集の仕事をよく農業にたとえて言っていた時期がありました。
いただいた原稿をととのえ、本に仕上げていく営みは、
種を蒔き、苗を育て、草刈りをし、
天気を気にし収穫までもっていく行為にいろいろ似ている気がしたものです。
いまもそれは変りません。

 

・空もよし歩数重ぬる探梅行  野衾

 

山田洋次さんのこと 3

 

高校生のとき、同級生の女生徒が授業中、こんなことを言いました。
もっとむかしに生まれたかった。
なぜなら、
むかしに生まれていれば、
歴史の学習で、こんなにおぼえることが多くなかっただろうから。
半分はじょうだんだったと思いますが、
現代史になればなるほど、
ものごとが錯綜していて、おぼえきれないという感想をもった生徒は多かった
はずですから、半分は本音だったかもしれません。
わたしも同感でしたから、忘れられないのでしょう。
歴史の勉強が好きでもなかったのに、
興味のある人の伝記を通じての歴史は、おもしろく感じられます。

 

1984年に出版された回想録の中で、
強く記憶に残ったあるできごとを報告している。
隣人の一人に京都大学の教授がいた。
特別講義のために大連に滞在していたのだが、日本が降伏して、
妻とともに身動きができなくなってしまった。
体が弱い人で、
食べるものを手に入れることもできずにいた。
洋次は、
彼のために本を売ってなにがしかのカネに換えようと考え、
元気のいい声で買い手の気を引いた。
すると一人の男が足を止めて、ある本の売り値を尋ねた。
買い手の登場に喜んで「十円です」
と答えた。
当時は貴重な食品だった落花生がいくらか買える額だ。
すると彼がこう言った。
「いいかい君、これは永井荷風の『墨東綺譚』の初版本といってね、
大変値うちのある本なんだぜ、十円なんかで売っちゃいかんよ」。
まだ中学1年生だった洋次は
「初版本なんてよくわからないし、『墨東綺譚』もよくわからない。
無知を指摘されたようでちょっと恥ずかしかったものです。
で、
そのおじさんが買ってくれるかと思ったら、
溜息をひとつついてそのまま行ってしまいました」。
後になって彼は、
『男はつらいよ』シリーズを象徴する人物、寅さんをつくりあげる。
ただ、
この露天商は少年の洋次よりもっと商売上手で、
巧みな口上でなんだって売ることができた。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、pp.67-68)

 

引用した箇所の冒頭「1984年に出版された回想録」
というのを読んでいませんので、
ここに記されているエピソードをはじめて知りました。
山田洋次監督にこんな思い出があったんですね。
山田さんが渥美清さんと知り合ったころ、
渥美さんの啖呵売に魅せられたことはなにかの本で読み知っていたけれど、
どうしてそんなに夢中になったんだろうと、
すこしふしぎな気もしていました。
それが解消された思いです。

 

・ていねいにゆつくり動く春の風  野衾