インドをはじめて訪れたのは29歳のときでした。それからつごう5回訪れました。
いろいろな土地をめぐりましたが、
そのなかに、お釈迦さまゆかりの地も含まれていました。
ブッダガヤ、サールナート、サーンチーなど。
サールナートでは、
サリーをまとった女性が、うつむきかげんに静かに歩いていました。
忘れられません。
この地にお釈迦さまが来られ、この地を踏んだのか。
しぜんと、
そういう気持ちになったことをおぼえています。
なぜこういう字を使ったかという問題があります。
もうお亡くなりになりましたが、
諸橋轍次先生、『大漢和辞典』をお作りになった方ですが、
あの先生と対談したことがあります。
そのとき先生は、
あくまで自分の想像だがといって、こうおっしゃった。
「仏」は本来「佛」と書きますね。
それで、
「弗」という字には否定の意味がある。
漢文では「~にあらず」というとき、この字を使うでしょう。
具体的な例についていうと、
水をわかしてお湯にすると沸騰します。
この「沸」には否定の意味が含まれているというのです。
つまり、
水をわかして湯にすると湯気が出てきます。
水蒸気になる。
水蒸気というのは、もとは水だけれども、水にあらざるものです。
水でありながら、水にあらざるものになるのです。
仏ももとは人間なのです。
凡夫です。
しかし、修業の結果すぐれた特性がそこに具現されて、
人間でありながら人間ならざるものになった。
神さまではないのです。
どこまでも人間です。
しかも人間を超えたものである。だからこういう字を使ったのだろう。
諸橋先生はこうおっしゃいました。
それはありうることです。
なぜなら、「ブッド」という音を写す漢字はいくらでもあります。
その中で、
わざわざこの字を使ったのはなぜか。
サンスクリットを漢字に音写した場合には、
たんに音を写すだけではなくて、
いろいろな意味を考慮して写していることがあります。
諸橋先生はそういう可能性を指摘されたのです。
(中村元[著]『ブッダ入門』春秋社、2011年新装版、pp.7-8)
栗山英樹さんも愛読されている森信三さんのことばに、
「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。
しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。」
がありますが、
人だけでなく、本もそうかな、という気がします。
中村元さんがパーリ語から訳された『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』
とあわせ、この二冊を読む
いまがその時だったかと思います。
・月替り号令一下鳥帰る 野衾