セネカさんのことば

 

セネカさんの本を毎日少しずつ読んでいますが、
耳が痛いようなことだったり、つい、きのうの行いを思い返したり、
反省させられたりすることが度々あり、
いつも思うことながら、
二千年も前の人とはとても感じられません。
文字は殺し、霊は生かす、ということがありますけれど、
文字によって、文字を媒介にすることによって蘇り、再生する霊もあるようです。

 

人間の本性は愛を促すが、怒りは憎しみを促す。
前者は人の役に立つことを命ずるが、後者は人に害を加えることを命ずる。
更にまた、
怒りが憤いきどおりを発する原因は、
自分自身を甚だ高く買っているからであり、
それは一見誇り高く思われるかもしれないが、
実は貧弱で狭量なものに過ぎない
と言うべきである。

なぜなら、
自分が軽蔑されたと思い込む当人が、
その相手よりも小者でない例ためしはないからである。
しかるに、
かの広大な心、すなわち自己を真に評価する心は、損害に復讐しない。
損害を感じないからである。
投げ槍は、
堅い面に当ると跳ね返る。
堅い物を打っても、打った者のほうが痛い目に会うだけである。
それと同じように、
どんな損害を偉大な心に加えようとも、
それを感ずるまでにさせることは不可能である。
加えられた損害のほうが、相手の加えんと求める損害よりも弱いからである。
このような心が、
いかなる投げ槍にも突き刺されないごとく、
どんな損害をも侮辱をも撥ね退けることは、
なんと立派なことではないか。
復讐は苦痛の表明である。
偉大な心は、損害によって歪ゆがめられるものではない。
君を侮辱した者は、君より強いか弱いかである。
もし弱いなら、
その者を大事にするがよい。
強いなら、君自らを大事にするがよい。
(セネカ[著]茂手木元蔵[訳]『道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年、p.193)

 

このようなことばは、頭で考えて、でてくるようなものではない気がします。
セネカさんがどれだけ苦労した人か、
その心痛は如何ばかりであったのか、
と想像せずにはいられません。

 

・ただそこを大地の上の蕗の薹  野衾

 

伏流水のこと

 

仕事で静岡県三島市に行ったとき、
富士山に降った雨が地下に浸みこみ、伏流水となって三島周辺で湧きでる、
といった話をうかがいました。
すぐに湧きでるわけでなく、
70日、26~28年、場合によっては100年もかけ、地上に湧きでるといいますから、
驚きます。
こういうことが、
人と人とが織りなす世界でも言えるかもしれないなと思います。
ドイツに『ファウスト』などで有名な、
1749年生まれのゲーテさんという著名な方がいました
けれど、
ゲーテさんを高山に喩えると、
この山に降った雨が地下にもぐり、
それがやがて湧水となって、
たとえば、
カーライルさん、エマソンさん、ソローさん、オールコットさん、
その娘の『若草物語』を書いたオールコットさん、
などのいのちを養っているのではないか、
さらにさらに、
その水は、
1871年にアメリカに留学し、29年間、かの地にいた新井奥邃さんのいのちも潤した
のではないか、
そんな想像がもたげてきます。
これも、
幽(かく)されていた意味が、時と場所を得て顕現する、
角(つの)ぐむ葦、
宇摩志阿斯訶備比古遅神
(ウマシアシカビヒコジノカミ)
の例かもしれません。

 

・春去ればジヤズレコードの音が鳴る  野衾

 

『聖書』における幽と顯

 

若い頃から『聖書』に親しんできて、とちゅう、じぶんの身辺のことが忙しくなったり、
ほかの、さまざまな本を読んだり、目移りもしましたが、
このごろは、
『聖書』はやっぱりおもしろいとの感想を持ちます。
何度も読み返していると、
その都度、
じぶんなりの発見がありますが、
旧約における預言者の書のなかにあらわれる、
メシア(救世主)の出現の予言に目が留まります。
『聖書』に関する解説書を読むと、必ずと言っていいほど、
そのことに触れており、
なので、知識としては知っているけれど、
ちかごろ鈴木重雄さんの『幽顯哲学』を読んだことにより、
旧約と新約のあいだの関係がいっそうおもしろく
感じられます。
旧約の「ミカ書」の第五章二節につぎのことばが記されています。

 

「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。
だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。
その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 

預言者ミカは、紀元前八世紀のひととされています。
引用したミカ書に照応する記事が、「マタイによる福音書」の第二章六節にでてきます。
たとえば、
旧約と新約のこの二つの文章をじっと眺めていると、
旧約において幽(かく)されていた意味が、
新約において顕現してくる、と感じられ、根が見えてくるように思います。
歴史のひとつひとつの出来事の底に、
幽(かく)されていた意味が、時と場所を得て顕現する、
そう考えると、
角(つの)ぐむ葦、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)
の阿斯訶備(=葦の芽)との響き合いが連想され、
じぶんの来し方行く末、
歴史の来し方行く末を考える契機にもなってくるようです。

 

・春寒し馬屋に尿の迸る  野衾

 

春日

 

きのうは、三か月に一度の定期検診の日。通院の帰りにタクシーを利用しました。
たまたま、割と利用するタクシー会社のクルマで、
それと、
前日とは打って変って、とても気持ちのいい天気でしたので、
つい、
「きょうはいい天気ですねー」と話しかけました。
「そうですねー。きのうと違って、きょうは春らしい、気持ちのいい日です」
と運転手。
さらに、
「さきほど乗られたお客さまも、クリニックの帰りでしたが、
自宅まで、歩けば五分とかからない距離だそうですけれど、
タクシーを利用して下さり、
どこでもいいので、少し走ってもらえないですか、とのことでした。
保土ヶ谷公園とか、景色の良さそうなところを思い浮かべ、
思いつくまま、
クルマを走らせました。
長崎生まれだそうで、
長崎も坂が多いけれど、横浜も坂が多い、
ふるさとを思い出しますと、おっしゃっていました。
ご自宅の前で降りられましたが、
バックミラー越しに見ると、
お辞儀をされ、ずっと手を振っていてくださいました…」
「そうでしたか…」
どんなにか喜ばしく、ありがたく、うれしい一日だったかと、
想像された。

 

・春寒し貨物列車の軋むかな  野衾

 

忠犬のこと

 

『和漢三才図会』のただいま読んでいる巻をふくめ、
このあとも、
しばらく全国の神社仏閣について、くわしすぎるぐらいの記述がつづく
ことになっていて、
ふ~、
江戸時代における百科事典とよばれるのも宜なるかな、
でありますが、
ときどき、
その社にまつわる由緒、来歴などが記されており、
それが、日本昔ばなし的でもありまして、
眠けが一気に吹き飛ばされます。

 

犬頭けんず社 上和田森崎(岡崎市上和田町)にある。
社領四十三石
犬尾けんび社は下和田(岡崎市下和田町)にある。
天正年中(一五七三~九二)、
領主の宇津左(衛)門五郎忠茂が、あるとき山に猟に行った。
彼の家には白犬がいて彼に従って走りついてきていた。
一樹の下に来たとき、
忠茂は俄にわかに眠けを催した。
犬は傍にいて彼の衣の裾すそを咬くわえて引いたので目が覚めたが、
また眠った。
犬が頻しきりに枕頭で吠える。
忠茂は熟睡を妨げられて怒り、
腰の刀を抜くと犬の頸くびを切った。
頸は樹の梢に飛んで大蛇の頸にくいついた。
主はこれを見て驚き、蛇を切り裂いて家に還かえった。
そして犬の忠情に感じて頭・尾を両和田村に埋めて祠を立てて祭った。
家康公はこれを聞いて大へん感嘆し、
かつ
この祠が往々霊験のあることによって采地りょうちを賜わった。
ちなみに宇津氏は、
大久保一族の先祖である。
(寺島良安[著]島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳[訳注]
『和漢三才図会 11』平凡社東洋文庫494、1988年、pp.57-58)

 

・春寒し駅へと急ぐ傘の列  野衾

 

蓮生さんのこと

 

ながくつづく本が好きなので、
平凡社の東洋文庫に入っている『和漢三才図会』を少しずつ読んでいます。
『失われた時を求めて』でも『アラビアンナイト』でも、
現実の時間と並行してながれるもうひとつの時間に揺蕩う体験が、
わたしの精神のバランスを保ってくれている
ように感じます。

 

蓮生れんしょう寺 志太郡藤枝(藤枝市本町)にある。
〔東派(東本願寺派)〕
熊谷くまがい蓮生房(直実)が関東に下向したとき、ここで糧かてが尽きた。
そこで一富家に入って一貫文の借銭を乞うた。
主が、
「あなたは誰か。質物はあるのかどうか」
と聞いた。
蓮生房はこれが質物である、といって念仏十遍を唱えた。
主人はその誠に感じて銭一貫文を与えた。
のちに蓮生房が来て借銭を返し謝礼して、前の質物を返してくれるよう乞うた。
家主はどうしていいのかすべを知らなかった。
蓮生は、
「何もむずかしいことはありません。あなたも念仏十遍を唱えればいいのです」
といった。
そこで主人はそのとおりにし、
あつく蓮生房を饗応きょうおうし、
つくづく一向専修の法意を聞いて夫婦とも剃てい髪し、
庵を結んで蟄居ちっきょした。
そこが後に寺となり、
いま本願寺の管轄の下にある。
(寺島良安[著]島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳[訳注]
『和漢三才図会 11』平凡社東洋文庫494、1988年、pp.23-24)

 

・春寒しぽつと灯りの点りたる  野衾

 

イネ(稲)のこと

 

齢九十二になる父の米づくりが始まりました。
数年前より、ことしが最後かな、来年は無理じゃないかな、と口にしていたところ、
近くに住む叔父の細やかなアシストによって、
なんとか米をつくってきました。
が、
いよいよ、ことしで終りにしようと、すっきり意気込んでいます。
さて、わたしのこのごろの関心は、
イネ科のイネ、
イネはどうしてイネと呼ぶの?
ということでありまして。
イネはもちろんイネ科ですが、麦もイネ科、葦もイネ科、
葦は『古事記』に宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)
の阿斯訶備(=葦の芽)として、
その名をとどめ、
また葦は、
「旧約聖書」に二十数か所も記載がありますから、
葦原の風景は、日本固有のものでなく、広く世界に分布している
もののようであります。
鈴木重雄さんの『幽顯哲学』を面白く読みましたが、
日本は動詞の国であるという記述があり、
目を開かされました。
そのヒントを得、
つらつら慮るに、
イネは「過ぎ去る、時が経過する」意の
イヌ(往ぬ、去ぬ)
ではないかとの想像が俄かにもたげてきました。
空、山、雪、土、種、苗、雨、稲、稲穂を見る父の隻眼を思い、
農民たちは、稲の成長によって時を知り、
また季(とき)を、秋(とき)の移ろいを意識し認識してきたのではなかったか、
と思います。

 

我が国は実に動詞(広義の)の国である。
今日吾々の日常使用してゐる名詞より漢語やその他の外国語を除いたならば
名詞の数は著しく少くなるであらう。
さうして
残った名詞も仔細に検すれば動詞を名詞として用ひて居るものが甚だ多い
ことを発見するであらう。
例へば光ひかり、明あかり、量はかり、霞かすみ
くもり、晴はれ、黒くろ、白しろなど
本は動詞であつて動詞の動きを停めて名詞とした
ものである。
名詞が少く動詞の多いこと、
動詞の或活用形を採つて名詞として間に合はすことは
事物を流動的に観る意識慣性に基くのであつて世界観人生観の流動なると
その軌を一にするものである。
我が国には動詞は豊富であるが名詞に乏しい。
これは長所であるか短所であるかは別として我が国の特色である。
古来
この名詞の欠乏は多く外国よりの輸入で賄つて来た。
昔より今日に至るまで名詞は多量に輸入したけれども
動詞は輸入しない。
文章の材料の一部は輸入したけれども
文章そのものは輸入しない。
このことは古今に通じ凡ゆる文化に通じていひ得ることであつて、
外来文化に対する日本的態度の如何なるものであるかは、
この言語の領域に表はれてゐる様相からも推知し得る
のである。
(鈴木重雄『幽顯哲学』理想社出版部、1940年、pp.218-219)

 

・春寒し田仕事を待つ土の黙  野衾