哲学者の小野寺功先生の本を数冊、春風社から出していて、
『聞書集 聖霊はまことの息吹 絶対無即絶対有のコスモロジー』
が直近のものになります。
これまでもそうですが、
この本の出版にあたっても、対面での聞き書きだけでなく、
たびたび電話でお話をうかがいました。
わたしが読んでいる本のもろもろについて、
読み方が間違っていないか、
先生にそのつど申しあげ、先生のコメント、感想
をいただきました。
それが、いまのわたしにとりまして、
だいじな宝になっています。
先生がお話のなかでよく触れられる聖句の一つに「ヨハネによる福音書」
第7章の文言があります。
第7章38節、
わたしを信じる者は、聖書が語ったとおり、
その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。
引用文中の「内から」は、
新約聖書の原典であるギリシア語では、
「腹から」となっているそうで、
そのことを小野寺先生は、「切腹」との対比で、ことあるごとに強調されます。
日本の武士が、勇気やまごころを示すために、なぜ自身の腹を切るのか、
その行為のみなもとを、東西文化のちがいを超え、
先生は見ておられるようです。
そしてさらに、
「ヨハネによる福音書」第7章38節に対応する旧約聖書の聖句がいくつかありますが、
たとえば、
「ゼカリヤ書」の第14章5節から8節にかけ、
つぎのようなことばがあります。
私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。
その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。
昼も夜もない。
夕暮れ時に光がある。
その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。
その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。
東の海は死海を指し、西の海は地中海を指します。
いのちは生命、いのちの水は生ける水。
『聞書集 聖霊はまことの息吹 絶対無即絶対有のコスモロジー』
の帯に、新井奥邃さんのことばを入れましたが、
その文中、
「生命の機は一息に在り」があり、
これは、
森信三さんが、森さんに親炙していた身近な方から質問されても解説しなかった、
森さんにとっても、だいじな、
火のようなことばであると思いますけれど、
『聞書集』が出てから、小野寺先生は本文を何度も読み返し、
はじめて、
「生命の機は一息に在り」が分かった
とおっしゃいました。
それが、わたしにとりまして、
こころからうれしいことであります。
・うららかやジヤズの悲しみ弾みをり 野衾