『聖書』における幽と顯

 

若い頃から『聖書』に親しんできて、とちゅう、じぶんの身辺のことが忙しくなったり、
ほかの、さまざまな本を読んだり、目移りもしましたが、
このごろは、
『聖書』はやっぱりおもしろいとの感想を持ちます。
何度も読み返していると、
その都度、
じぶんなりの発見がありますが、
旧約における預言者の書のなかにあらわれる、
メシア(救世主)の出現の予言に目が留まります。
『聖書』に関する解説書を読むと、必ずと言っていいほど、
そのことに触れており、
なので、知識としては知っているけれど、
ちかごろ鈴木重雄さんの『幽顯哲学』を読んだことにより、
旧約と新約のあいだの関係がいっそうおもしろく
感じられます。
旧約の「ミカ書」の第五章二節につぎのことばが記されています。

 

「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。
だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。
その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 

預言者ミカは、紀元前八世紀のひととされています。
引用したミカ書に照応する記事が、「マタイによる福音書」の第二章六節にでてきます。
たとえば、
旧約と新約のこの二つの文章をじっと眺めていると、
旧約において幽(かく)されていた意味が、
新約において顕現してくる、と感じられ、根が見えてくるように思います。
歴史のひとつひとつの出来事の底に、
幽(かく)されていた意味が、時と場所を得て顕現する、
そう考えると、
角(つの)ぐむ葦、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)
の阿斯訶備(=葦の芽)との響き合いが連想され、
じぶんの来し方行く末、
歴史の来し方行く末を考える契機にもなってくるようです。

 

・春寒し馬屋に尿の迸る  野衾