聖書は、私たち自身の日常的経験を批判的に照射する《別の》世界を映し出しているのです。
それは、
私たちが日ごろ慣れ親しんでいるものの見方や閉じられた生活経験にたいして、
根本的に疑問をつきつけるのです。
聖書は、
私たちに未知の、
まったく新しい地平へ目を開いてくれる《窓》であるばかりではありません。
それは、
さらに私たちにたいして自分自身を映し出してくれる、
それによって自分自身を正しくとらえることを可能にする《鏡》でもあるのです。
いずれにせよ、
聖書は、
情報を伝える言語ではなく、
語りかける言葉です。
それは、
信仰を告白し、賛美し、訴えて、
聖書の言葉に耳を傾ける私たちを同じ信仰へとつき動かそうとするものです。
聖書の言葉は、
そうした信仰の出来事の中に私たちを巻きこむことによって
生きた神の言葉となるものです。
そこでは、
主体的な聞き方=読み方が求められてくるのは当然でしょう。
ふつう私たちが一冊の本を手にとり、
それをまず開こうとするとき、
私たちは、
他者によって創造され体験された未知の世界へ足を踏み入れ、
それによって自分の個人的地平をさらに広げようとする希望に促されているはずです。
聖書を読むという冒険をあえてする人は、
自分の実存が問われ変えられる新しい可能性を探求する途上にある
と言ってよいでしょう。
(宮田光雄『御言葉はわたしの道の光 ローズンゲン物語』新教出版社、1998年、
pp.139-140)
アンラーニングという単語をこのごろ目にし、
耳にします。
「これまで学んできた知識を捨て、新しく学び直すこと」
と定義されるようですが、
上で引用した箇所など、
まさに、
アンラーニングによるラーニング、
ということになりそうです。
十代の終りの頃から聖書を読んできましたが、
これで終りということがなく、
読めば読むほど、味わい深く、
いったん身についたと思われることが剥がれ落ちていく、
そんな感覚もあり、
冒険が
「危険を承知の上で、あえてやってみること」
だとすれば、
聖書を読むことはたしかに「冒険」かもしれません。
たとえば、
怒りを爆発させ落ち込み、
それでも、
自分自身を納得させるような理由を見つけ反芻した翌朝、
旧約聖書「箴言」第16章第32節、
「怒りをおそくする者は勇士にまさり、
自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」
(口語訳聖書から。
「城を攻め取る者」が、新しい聖書協会共同訳では「町を占領する者」)
なんてことばに遭遇し、
とほほ、
前日納得したはずの理由がポロポロ、
こぼれ落ちてゆきます。
・花曇りつんざく鳥の空の道 野衾