漢字とギリシア神話

 

むかしむかし、大むかしに、いまわたくしたちたちが、アーリア人とよんでいる人びとが、
中央アジアのどこかにすんでいました。
この人びとは、
すべてのものは生きているのだと考えました。
たとえば、
青空に白い雲が動いているのを見ると、
青い海をたくさんの帆かけ舟がわたっていくのだ、と考えました。
また、
その雲がとてもたくさんあって、
風でずんずんおなじ方向へふきながされていくのを見ると、
たくさんのメウシを、
目に見えない牛飼いが追っていくところだ、
と思いました。
(石井桃子[編・訳]富山妙子[画]『ギリシア神話』のら書店、2000年、p.10)

 

引用したこの本は、
かつて、あかね書房から刊行された『ギリシア神話』を復刊したもの、
とのこと。
「あとがき」を見ると、
小学校高学年向けとなっており、
引用した文章でいえば、
たとえば「中央」や「動いて」や「帆かけ舟」などに、ふりがなが振られています。

 

アーリア人は、あきずに空をながめました。
あるときは、雲を宝の山だ、といいました。
いなずまは、
その山のなかにある、かがやく宝を、ちらっと見せてくれる岩のさけめだ、
と思いました。
そのうち、
アーリア人たちは、
昼のかがやいている青空も、生きているもの、
と考えるようになって、
「父なるダイアーウス」(「父なる空」)とよぶようになりました。
青空はなによりも高いところにあって、
すべてのものを支配しているように見えたからです。
アーリア人は、また、太陽を
「かがやきながらさまようもの」「金の目と金の手をもつ神」とよびました。
そして、夜の暗やみは、
太陽神の矢で殺されたヘビなのだ、と思いました。
(同書、pp.10-11)

 

アーリア人たちのうち、ギリシアに移り住んだ人びとは、
じぶんたちと一緒に、上で引用したような話を、その土地に運んだ、
と、書かれています。
引用が長くなりますので、
この辺りで止めたいと思いますが、
この本は、
いまのわたしには、とても興味があることなので、
一気に読みました。
どういう興味かといえば、
それは、漢字との連想にかかわるものです。
白川静さんの一連の書物を読み、
漢字が、
それが成立するまでの古代中国の人びとの世界認識、世界観の表れである
ことを教えられましたが、
表意文字でない表音文字のヨーロッパで、
漢字による世界観、世界認識になぞらえるものがあるとすれば、
ギリシア神話がそれではないか、
との想像が脳裏をかすめた
ことがそもそものきっかけでした。
それも、
いきなりアタマに浮んだわけではなく、
渡邊二郎さんの『ハイデッガーの存在思想』に刺激され、
触発されてのことであります。
「存在」と「存在者」の区分けと説明は、
懇切丁寧で、
じつによく解り、
その観点から、ギリシアの思想、ソクラテス以前の哲学、ギリシアの神々、
に思い至り、
古代ギリシア人の世界認識のあり方を、
わたしなりに勉強し直し、
知りたいと思ったからです。
いまのわたしの関心から、石井桃子さんとのつながりにおいて、
エリナー・ファージョンも、
ぐっと身近に感じられるようになりました。

 

・春の日や交番前の老警官  野衾