故郷喪失と存在の故郷

 

(=ハイデッガー)は、先ず、存在を根源としての故郷として捉え、
ここに還ってゆくことを帰郷と名づける。
そしてその帰郷は、
詩人がその旅路へと先ず出で立ち、
故郷の本質を詩作としてうたい出し、これを頽落せる人々に広め、
かくして全体的に人々を覚醒せしめるときに、
初めて可能になる。
故郷喪失が世界の運命となった今、
ハイデッガーは、ヘルダーリンとともに、故郷へ帰ろうとする詩人たろうとするのであろう。
世界の夜の只中に、聖なるものを見守る詩人とともに、
ハイデッガーもまた、失われし存在の真理を喚起すべく、
存在の牧人たろうと欲するのである。
それ故、
ここには、
存在の何たるかの暗示と、
詩人ないし思索家の使命とが読み取られ、
ヘルダーリンの詩作に仮託して、
ハイデッガー自身の存在の思想が盛り込まれている。
そればかりか、
ここには、
帰郷するためには、
一度故郷を離れて、
さすらいの旅を続けなければならないと説かれているところに、
存在の歴史の法則性さえも主張されているのである。
根源や故郷というものは、
一度それから離れ、
非根源的なものや迷いを通さなくては、
そこに還ってゆけないのである。
これは恰あたかも彼の存在史の思想に繋る。
彼によれば、
遠い原初が真に原初として根源的なものとして自覚され得るためには、
原初が蔽われ、迷いの歴史が生起し、その迷誤を深め、
そのことを通して、
根源へ還る帰郷の日が明けそめてゆかねばならないのである。
(『渡邊二郎著作集 第2巻 ハイデッガーⅡ』筑摩書房、2011年、pp.336-7)

 

「ヘルダーリンの詩作に仮託して」
という箇所に目が行きます。
生前親しくさせていただいた詩人の飯島耕一さんの詩にみちびかれるようにして、
河出書房新社からでている『ヘルダーリン全集』を
おもしろく読みましたので。
ヘルダーリンの書簡体小説に『ヒュペーリオン』
がありますが、
ヒュペーリオンは、
もともと、
ギリシア神話に登場する神の名前で
「高みを行く者」の意。
ところで、
渡邊さんのこの本には、
「フォアソクラティケル解釈と思索の本質」という章もありまして、
ハイデッガーの、
ソクラテス以前の哲学者、哲学への関心
についても解説されています。
「ソクラテス以前」がどこまで行くのか、
遡るのか、
それをつらつら、
空をゆく雲をぼんやり眺める具合で考えていました
ら、
ヒュペーリオンがそうであるように、
ギリシア神話の神々にまで、思索が及んでいるのではないか、
そんな気がしてきました。
「存在の牧人」という言い方から、
すぐに牧人パンを連想し、
自然を詠ったヴィクトル・ユーゴーの詩、
また、
ステファヌ・マラルメの詩『半獣神の午後』が思い浮かびます。

 

・春の日を烏左方へ鳩右方  野衾