瀬田貞二と石井桃子との出会いは一九五一(昭和二十六)年にさかのぼる。
(中略)
とはいえ、
瀬田の方も当時はまだ、
子どもの本に関する知識にさほど自信があったわけではなさそうだ。
平凡社に通い始める前、
敗戦からの二年ほどは、
錦糸町に近い旧制東京府立第三中学校夜間部(桂友中学)の国語教師を続けながら、
「余寧《よねい》金之助」の名で子どものための創作を始めていた。
東京帝国大学文学部国文科の学生時代、
「ホトトギス句会」で出会った中村草田男に師事し、
俳句誌「萬緑」の創刊以来の同人でもあった瀬田は、
石井同様、
初めから子どもの文学をめざしたのではなかった。
ただ、
子どもの本を心の底から楽しむ素質があり、
それを批評する言葉を豊かに持つ、
幅広い教養の持ち主だった。
石井の場合は英米の文学が補助軸となったように、
瀬田には俳句という軸が通っていたのだろう。
そして、
戦争で深い傷を負ったところから子どもの本へ向かった志の根も、
どこかでつながっていると初対面で感じ合った
のかもしれない。
(尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』新潮社、2014年、pp.392-3)
尾崎真理子さんのこの本、
いろいろ
「ええっ!? そうだったの!」
と、
おどろくことしきりでありますが、
上で引用した箇所も、
そのうちの一つ。
瀬田貞二さんが俳句を物し、
中村草田男さんに師事していたなんて、知りませんでした。
瀬田さん訳の『指輪物語』が、
あんなに長いのにすらすら読めたのは、
物語の面白さもさることながら、
日本語のキレの良さ、
かつ、
しなやかさ、柔らかさが利いていたのかと、
いまになって思います。
そして、
「戦争で深い傷を負ったところから子どもの本へ向かった志の根」
のところに目を奪われました。
生涯の仕事を支えた底の底に眼がひらかれた気がします。
子どもの本ではありませんけれど、
わたしが直接接した方でいえば、
思いつくままに、
演出家の竹内敏晴さん、
哲学者の木田元さん、
いまも折にふれ教えをいただいている哲学者の小野寺功さん、
その方たちの話をじかに伺い、
本を読むたび、
仕事の根底に戦争の体験があると感じます。
いろいろな角度から、
凝視し、想像し、
ひきつぐ志を抱いて、
じぶんの仕事を練り上げたいと思います。
・鶏小屋の戸の軟らかく水温む 野衾