不安は恐怖とは違う。恐怖はその原因が一定であるが、不安は不定である。
「何となく気味が悪い」という表現の示すように、
人は何に対して不安なのか分らない。
不安においては、
存在者全体の遠ざかり(Wegrücken)が我々を圧迫するのである。
我々には支えがなくなる。
存在者の脱落(Entgleiten des Seienden)の中で、
この支えのなさが我々を襲う。
不安は、
なさ即ち無を顕示する。
不安は我々を浮動させる。
それは存在者全体を脱落させるから。
そうした存在者の只中で、
我々人間というこの存在者が、ともに脱落してゆくのである。
そこで
「何となく気味が悪い」のである。
不安が去った後で、
人はそのために不安を感じたところのものが本来何でもなかった即ち無だったのだ
と知る。
それ故、
不安の根本気分からこそ、
無は見つめられねばならないのである。
(『渡邊二郎著作集 第2巻 ハイデッガーⅡ』筑摩書房、2011年、p.58)
四十代の終りに左の鎖骨を骨折し、
それが治りかけたころ、
すべてのものが、遠ざかり、脱落し、よそよそしく感じられ、
「何となく気味が悪い」日がつづいて、医者を訪ね、紹介された心療内科を受診したら、
医師から、
パニック障害とうつ病の併発を告げられた。
最悪ではないけれど、
それほど軽いものではない、
とも言われた。
ながく重い日が、無限ループをなし、延々とつづくように思われた。
ある日、
重いからだに鞭打って、
晴天の日のもと、
桜木町の駅から会社に向かって歩いていたとき、
不意に、なみだが溢れ、
頬をつたわった。
どうしてしまったんだろう、
俺。
ハイデッガーを論じる渡邊二郎さんの上の文章に触れたとき、
あの日のことがまざまざと甦った。
無。
だったのだ。
経験を窓とし、経験の窓から世界を眺める、
と。
あれは、
不安に基づく無の世界だった。
・音立てて春の匂ひの目玉焼き 野衾