「かげひびき」のこと

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんは、「影響」の熟語を「かげひびき」と読ませています。
そこに特別の思いがあったのではないか、
と想像されます。
ひとはいろいろなものに影響されます。
親、兄弟、姉妹、祖父母、近所のおじさん、おばさん、友だち、恋人、先生、……。
ひとからの影響だけでなく、
音楽、絵画、映画、小説、哲学書、
風土や自然からの影響だってあるかもしれない。
たとえば、
親からの影響は大きいかと思いますが、
父から、母から、あのとき、あんなことばをかけられた、
とか、
もちろん、
そういうこともあるけれど、
それよりも、
「親の背中を見て育つ」
的なことをイメージする
と、
「影響」よりも「かげひびき」のほうがピッタリくる気がします。
具体的なことばや出来事よりも、
その時代、その時期に、
その場に居てそこで呼吸した、
そのことの意味が大きいのではないか。
ひとの考えは、
じぶんでも気づかぬうちに、
場と時と「かげひび」いて、形成されるのではないか。
エビデンスとか、
そういうことでなく。
わたしは映画『男はつらいよ』が好きで、
これまでくり返しくり返し、
何度も見てきましたが、
ふと、
車寅次郎の寅次郎は、なんで寅次郎なんだ?
と疑問がもたげてきた。
ひょっとして吉田松陰さんがもとになっているのでは?
そんな気がしてネットで調べたら、
そういうことを思って、
主張している人もいるようです。
松陰さんの名は矩方(のりかた)、通称、寅次郎。
『男はつらいよ』の寅さんと字もおんなじ。
となれば、
寅さんと松陰さんをつなげて考えてみたくなる、
気持ちは分かります。
松陰さんが詠んだ
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
の歌はどこか、
寅さんの
「それを言っちゃあ、おしまいよ」
のこころとひびくようです。
わたしとしては、
寅さんのモデルは吉田松陰、
とか、
そういうことではなしに、
監督の山田洋次さんは、
若いころ数年、
松陰さんのふるさと山口に居ましたから、
土地と歴史の空気を吸って、
松陰さんのことが、
ほかの土地の人よりも、体と心に沁み込んでいるのではないか、
そんなふうに思います。
かげひびき。
「かげひびき」の「かげ」はまた、
暗い影だけでなく光を指すこともあります。
「月影」など。
土地と風土からの影響、かげひびき、
を考えるとき、
光のさざ波に触れ、
こころと体がふるえ、
それがその後の人生を照らす光源になる、
そんなイメージが「かげひびき」にはあります。

弊社は、4月29日(土)~5月7日(日)GW休業といたします。
5月8日から通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・ほうれん草色と味とで目が覚める  野衾

 

そう思います。

 

四月十九日(水)『秋田魁新報』の「五木寛之 新・地図のない旅」
のコラム欄に、
「言葉が減っていく時代」
として掲載されていた五木さんの文章に共感し、
考えさせられました。
以下は、
その後半部分からの引用です。

 

東北の雪深い土地では、昔は、
「どさ?」
「ゆさ」
などという会話があったと聞いたことがある。
「どこさ行くの?」
「湯に入りにいくんだよ」
というやりとりは、なんとなく滋味あふれる感じで、いいなあ、と感激したものだった。
しかし、
それも雪深い寒気のなかでの会話だから情緒があるので、
ふだん言葉を節約する必要はないのである。
昔は口数が多いと、
なんとなく白い目で見られることもあった。
<男は黙ってナントカ・ビール>
などというコマーシャルもヒットした。
しかし口数が少なければ誠実、というわけでもないだろう。
少なくとも
「こんにちは」「ありがとう」「ごちそうさま」「さようなら」
ぐらいの言葉は節約せずに、
ちゃんと使ったほうがいいと思うのだ。

 

五木さんの文章にある「どさ?」「ゆさ」は、
かなり流布しているらしく、
テレビでも紹介されているのを以前見たことがあったような。
だけど、
「どさ?」「ゆさ」にかぎらず、
これは、
方言について回るどうすることもできない問題かと思いますけれど、
土地の人以外の方が「らしく」発音する
のは、
相当に難しいらしく。
テレビで「どさ?」「ゆさ」を耳にしたときも、
そう感じました。
ところで、
「どさ?」「ゆさ」を、
わたしは、
小学生のころに、
教科書で習った記憶があります。
なぜ憶えているかというと、
「どさ?」「ゆさ」がいちばん短い会話として紹介されていたから。
そんなことはない、
と、
子どもごころに思いました。
いちばん短いのは、なんといっても、
「け」
「く」
じゃないべが? って思った。
「食べなさい」
「はい。いただきます」
ぐらいのニュアンス。
わたしが生まれた地方の、家族内の会話としては珍しくないと思います。
それはともかく。
本題の、
あいさつ的なことばに関する五木さんのコメントは、
まったく同感。
礼儀だと思います。

 

・初蝶を追ひてどこまで目の泳ぐ  野衾

 

根のある理屈は突き動かす

 

「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」
は、
映画『男はつらいよ』第一作で、
さくらに惚れている博と寅さんが江戸川河川敷の屋形船のなかでやりあい、
博の発したことばにやり込められそうになった、
そのときに、
寅さんが発したセリフ。
その前のセリフは、
「お前と俺は別な人間なんだぞ。
早い話がだ、オレが芋食ってお前の尻からプーと屁がでるか?」
これぞまさに屁理屈、
屁りくつ、
なんでありますが、
名言ですねえ。納得します。
そうだそうだ、その通り、
と、
福島県会津若松の郷土玩具「赤べこ」のように、
何度でも、
首を縦に振ってしまいますけれど、
ただの理屈と根のある理屈というのがある気がします。
「どぶに落ちても根のある奴は
いつかは蓮の花と咲く」
の歌の文句は、
「根のある理屈」を持っているひとのことを指していると思います。
さて話変ってWBC。
侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹さんは、
大の読書家で、
読んだ本のなかにあることばに感銘を受けると、
それをノートに書き写すそうです。
そのことばを、
ことあるごとに読み返しては、
一日を振り返ってみる。
そういうことが『栗山ノート』に書かれてありました。
その行いを通じて、
ことばが、
ただの理屈を越え、
栗山さんのこころに深く根を下ろしていった、
そう思います。
先週金曜日、
タレントの長嶋一茂さんが「ザワつく!金曜日」に出演し、
栗山監督とのエピソードを語っていました。
ふたりはヤクルト時代のチームメイトで、
一茂さんと栗山さんは35年来の付き合いだそうです。
一茂さんは、
あの長嶋茂雄さんの長男で、
鳴り物入りでプロ野球界に入った人ですから、
当時、どこにいっても、
ファンやマスコミの方々に取り巻かれ、
ひとりになることができなかったのだと思われます。
入団一年目のキャンプで栗山さんと同部屋だったときに感じていた疑問を、
一茂さんは、
侍ジャパンがWBCで世界一になった後、
栗山さんと再会した折に、
あらためて栗山さんに問い質してみたそうです。
「消灯が10時か11時だったんですけど、栗山さんが帰ってこない。
俺、ずっと部屋でひとりぼっちなわけ。
初めて聞いたの、35年前のこと。
『なんで消灯前に部屋にいなかったんですか?』
そうしたら、
『一茂はひとりにさせてあげないと。気をつかって違う部屋にいた』
って言ってくれて…。
そういうことができる人だから世界一になったんです」
一茂さんのそのことばをテレビで知って、
驚きました。
さらに一茂さんは、
「野球を辞めて以来、27年間、ずっと野球がきらいだった。見たくなかった。
なのに、解説を求められれば、楽しそうに解説をしないといけない。
それがすごいつらかった。
でも、栗山野球を見て、また野球が好きになった」
そのことばを耳にし、
思わず、
目頭が熱くなりました。
そして、思いました。
もちろん栗山さんの人柄もあるでしょう。
だけど、それだけとは思いたくない。
倦まず弛まずの日々の努力があってのことだと思います。
本を読み、感銘を受けたことばをノートに書き写し、ことあるごとに読み返しては、
じぶんのこころに、ことばを沁み込ませ、
それが目に見えない形で深く深く根を下ろしていく、
やがてそれが本人の生き方を突き動かし、
チームや組織を変えていく力、原動力になる、
そういうことのような気がします。

 

・地を離れ上へ上へたんぽぽの絮  野衾

 

『論語』と『聖書』

 

人生は与えられていくものだと思います。人間として生命を授かり、野球と出会い、
指導者や友人に恵まれて野球をどんどん好きになっていった。
プロになりたい私の希望を、両親が後押ししてくれた。
現役引退後はスポーツキャスターの仕事を得て、
20年以上もメディアで働くことができた。
そして、
そんなにも長く現場から離れ、かつ指導者経験のない私を、
ファイターズが監督として迎え入れてくれた。
周りの人たちがいるからこそ、
いまの自分がある。
野球に対して「一を以てこれを貫く」
ことができている。
成果と呼べるようなものをあげることができたら、
自分を褒めたくなるものでしょう。
「オレは仕事ができるヤツだ」
と、
胸のなかで自信が膨らむかもしれない。
けれど、
自分の人生は与えられたもの、周囲の支えがあってこそだ、
と考えたらどうなるか?
もっとできたんじゃないか、もっとできるんじゃないか、
という思考になっていく気がします。
ひとつのことをやり遂げる力強い意志が、全身に漲みなぎっていくでしょう。
(栗山英樹『栗山ノート』光文社、2019年、pp.164-5)

 

まことに、そのとおりであると、わたしも同感です。
本を読まなかった山国生まれの子どもが、
都会に出てきて、縁あって、どういうわけか出版社をつくり、代表を務めている。
務めさせてもらっています。
まったく。
「一を以てこれを貫く」は『論語』にあることば。

 

人生を使命をいただいたものとして生きるなら、
そこから送り出され、
いずれは帰らなければならない家があることに気づくようになります。
何か知らせを伝えるために、
あるいは
あるプロジェクトで働くために遥か遠い国に来ている人のように自分が思えてきます。
しかしそれはほんの短い時間のことです。
知らせが伝えられ、仕事が完成すると、
任務を報告するために家に帰り、仕事を休みたいと思います。
最も重要な霊的鍛錬の一つは、
私たちの人生という年月は使命をおびた年月であるという理解を深めることです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.156)

 

栗山英樹さんは野球の監督、ナウエンさんはカトリックの司祭。
生まれ育った国も文化も違っているけれど、
また、
引用した箇所のベースになっている『論語』と『聖書』では、
一見、異なる真理を表明しているようでありながら、
真理が真理であるならば、
それは、
共通したこころをもっているはず。
新井奥邃(あらい おうすい)さんというひとは、
そのことを洞察し、
生涯、その真理に与っていた人だと思います。
新井さんのことを「幻の師」として敬仰したのが森信三さんでした。
栗山英樹さんは、
森信三さんを評して、
「不世出の哲学者」と表現しています。
森信三さんの思想を表すことばが「全一学」です。

 

・初蝶や昔はものを思はざる  野衾

 

目を見て話すと

 

講演だったり、対談・鼎談だったり、
かつての授業もそうでしたが、
ひと前でしゃべる機会がけっこうありまして、
じぶんの決め事として、ずっと続けてきたことがあります。
それは、
しゃべることを計画し、構想を練り、柱を立ててプロットを作成し、
ガチガチに、
どの場でどういうことば遣いでしゃべるかまで考え、
これでヨシ!
という状態にまでテンションを上げ、
そうして、
その場に臨んだら、
予定していたことを捨てて、講演だったら、会場にいらっしゃる方の、
対談・鼎談だったら、お相手の、
授業だったら生徒たちの、
それぞれの顔と表情を見て、
そのとき思いついたことをしゃべる。
だったら計画を立てることの意味ないじゃん、
と、
じぶんにツッコミを入れたくもなりますが、
立てた計画を捨てた瞬間に、
目の前にいらっしゃる方の顔がよく見える気がし、それはずっと変りませんので、
いまもそのやり方を続けています。
それで、
顔が見えたら、
予定していたこと、ものを後から取り出し、
復帰させ、
しゃべりに活かしていく、
そんな感じです。
そうすると、
けっきょく、何がいちばん大事かというと、
言い古された感がありますけれど、「ひとの目を見て話す」的なことで。
ひと前でしゃべることは緊張を強いられますから、
強いられた緊張から逃れ、
相手の顔を見るために、
立てた計画をいったん捨てる、は、けっこう有効かな、
と。
プライベートの場面では、
そんな面倒なことをしなくても、
ちゃんと相手の目を見てしゃべります。
ん。
こうしてこの文を入力してきて、いま思いついたのですが、
「人の目を見て話」していると、
そこで何が起きているかといえば、
こちらの素の状態を相手にさらしているのかな。
以上でも以下でもなく、
これだけのニンゲンです。
みたいな。
そんな気がしてきた。
きのうは、
哲学者の小野寺功先生との対談を弊社で行いました。
四時間ほどの長丁場。
聞き書き集として、
いずれまとめたいと思います。

 

・新緑や葉裏くすぐる風の音  野衾

 

人生の不思議

 

三十代のある日、夜の集会で、私は声を大にして、私たちはきよくなければならない
と説きました。
集会後、
一人の青年がつかつかとやって来て、
こう言ったのです。
「きよくなるということが、先生のようになることなら、私にはいりません」
〝頭の後ろをガーンと殴られたような″
という表現そのものに、
私はそこに立ち尽くしました。
しかしそれは、
牧師は語ったように自分が生きなければ、
人の心を動かすことはできないということを、
その人を通して主が教えてくださった貴重な経験でした。
十年経ったころに、
説教について、
妻から言われたことばも忘れられません。
「開拓のころ、あなたの説教は何を言いたいのかよく分かりませんでした。
でも、聴いていて涙が出ました。
このごろは少し分かるようになりましたが、
涙が出なくなりました」
嗚呼ああ

 

そのころ、V・レイモンド・エドマンの『人生の訓練』(いのちのことば社)にふれ、
「聖書はこういうふうに読むものか」
と目が開かれる思いがしたことを忘れられません。

 

ただひとり 大いなる不思議を行われる方に。
主の恵みはとこしえまで」(詩篇一三六・四)
(野田秀[著]『牧師という生き方』いのちのことば社、2018年、pp.29-30)

 

野田秀(のだ しげる)さんは牧師ですから、「開拓」というのは、
開拓伝道のことでしょうね。
読んだとき、
すぐに新井奥邃(あらい おうすい)のことばを思い出しました。
いわく、

 

世に神秘を嗤わらふ者あり。学者に多し。思はざるの甚はなはだし。
およそ清浄なる者は是れ神秘に由らざるはなし。
みな神の美に本源すればなり。
(『新井奥邃著作集 第五巻』春風社、2001年、p.172)

 

わたしが横須賀にある高校で教員をしていたとき、
国語の先生で、Sさんという方がいました。
お酒が好きで、酒が入ると、よく「人間」「人生」の二語を口にされた。
そのときは聞き流していましたが、
どういうニュアンスでおっしゃられたのか、
気になります。
いまとなっては分かりませんけれど、
口にされたときの表情を思い浮かべながら、
想像することはできます。
Sさんは、
お父さまが新聞社の記者をされていたそうで、
Sさんが高校生のころ、秋田に赴任することになり、
家族ともども秋田に引っ越し、
Sさんは、
わたしと同じ高校に入学したのだとか、
高校時代のことを感慨深げに話してくださいました。
横須賀の地で、同じ職場で、母校の先輩に会えるのも不思議なことでありました。

 

・新緑を光の魚の泳ぐかな  野衾

 

直観と記憶

 

正に直観こそ実に記憶に材料や事柄を与へるものである。
記憶は集められたもの・直観されたものの容器である。
正にペスタロッチーの教授法の特別の効績は、
その教授法が記憶を空からにして置かず、
空の言語で満たす代りに直観を媒介としてそれを事実で満たし、
正に斯くすることに依つて悟性の練習の為に豊富な貯蔵庫即ち悟性を概念の真理に導く際に
特にそれを誤謬から保護する貯蔵庫を開いてやるところにある。
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第二巻』復刻版、岩波書店、
1985年、p.414)

 

日本における明治以降の学校教育を考えるとき、
ペスタロッチーさんは外せませんので、
いくつかある伝記のなかからハインリヒ・モルフさんの『ペスタロッチー伝』をえらび、
読んでいます。
わたしが読んでいるのは、
復刻版ですが、
もとの訳書は、第一巻が昭和14年ですから1939年の11月に発行されています。
ヨーロッパではすでに第二次世界大戦が勃発し、
日本でも翌々年、
太平洋戦争に突入していきます。
そういう時代の空気のなかで、
長田新(おさだ あらた)さんのこの訳書が出版されました。
引用した文章は、
ペスタロッチーさんを深く理解し、
協力を惜しまなかった若きニーデラーさんという方が雑誌に発表したもの。
ニーデラーさんは、已むに已まれず、原稿を書き、
この雑誌に投稿しました。
というのは、
ペスタロッチーさんの学校を小一時間ほど視察した牧師が、
いかにも底意地の悪い、悪意に満ちた文章を、
同じ雑誌に発表したからです。
どこにもいますね、そういうやから。
重箱の隅をつつくようにして、
ことがら、人物のいいところを見ないで、
見ようともしないで、
あらさがしを趣味とするような愚物。
そんなやからは、
はなから問題にしないという行き方もありますけれど、
世の中はまた、
そんな愚物によって左右されるところがあり、
放っておくわけにもいきません。
ニーデラーさんは、
尊敬するペスタロッチーさんが、
ペスタロッチーさんの学校が、
ペスタロッチーさんの学校の子どもたちが
腐されるのをだまって見過ごすことができなかったのでしょう。

 

・緑浴び尚まなうらの緑夜かな  野衾