『論語』と『聖書』

 

人生は与えられていくものだと思います。人間として生命を授かり、野球と出会い、
指導者や友人に恵まれて野球をどんどん好きになっていった。
プロになりたい私の希望を、両親が後押ししてくれた。
現役引退後はスポーツキャスターの仕事を得て、
20年以上もメディアで働くことができた。
そして、
そんなにも長く現場から離れ、かつ指導者経験のない私を、
ファイターズが監督として迎え入れてくれた。
周りの人たちがいるからこそ、
いまの自分がある。
野球に対して「一を以てこれを貫く」
ことができている。
成果と呼べるようなものをあげることができたら、
自分を褒めたくなるものでしょう。
「オレは仕事ができるヤツだ」
と、
胸のなかで自信が膨らむかもしれない。
けれど、
自分の人生は与えられたもの、周囲の支えがあってこそだ、
と考えたらどうなるか?
もっとできたんじゃないか、もっとできるんじゃないか、
という思考になっていく気がします。
ひとつのことをやり遂げる力強い意志が、全身に漲みなぎっていくでしょう。
(栗山英樹『栗山ノート』光文社、2019年、pp.164-5)

 

まことに、そのとおりであると、わたしも同感です。
本を読まなかった山国生まれの子どもが、
都会に出てきて、縁あって、どういうわけか出版社をつくり、代表を務めている。
務めさせてもらっています。
まったく。
「一を以てこれを貫く」は『論語』にあることば。

 

人生を使命をいただいたものとして生きるなら、
そこから送り出され、
いずれは帰らなければならない家があることに気づくようになります。
何か知らせを伝えるために、
あるいは
あるプロジェクトで働くために遥か遠い国に来ている人のように自分が思えてきます。
しかしそれはほんの短い時間のことです。
知らせが伝えられ、仕事が完成すると、
任務を報告するために家に帰り、仕事を休みたいと思います。
最も重要な霊的鍛錬の一つは、
私たちの人生という年月は使命をおびた年月であるという理解を深めることです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.156)

 

栗山英樹さんは野球の監督、ナウエンさんはカトリックの司祭。
生まれ育った国も文化も違っているけれど、
また、
引用した箇所のベースになっている『論語』と『聖書』では、
一見、異なる真理を表明しているようでありながら、
真理が真理であるならば、
それは、
共通したこころをもっているはず。
新井奥邃(あらい おうすい)さんというひとは、
そのことを洞察し、
生涯、その真理に与っていた人だと思います。
新井さんのことを「幻の師」として敬仰したのが森信三さんでした。
栗山英樹さんは、
森信三さんを評して、
「不世出の哲学者」と表現しています。
森信三さんの思想を表すことばが「全一学」です。

 

・初蝶や昔はものを思はざる  野衾