直観と記憶

 

正に直観こそ実に記憶に材料や事柄を与へるものである。
記憶は集められたもの・直観されたものの容器である。
正にペスタロッチーの教授法の特別の効績は、
その教授法が記憶を空からにして置かず、
空の言語で満たす代りに直観を媒介としてそれを事実で満たし、
正に斯くすることに依つて悟性の練習の為に豊富な貯蔵庫即ち悟性を概念の真理に導く際に
特にそれを誤謬から保護する貯蔵庫を開いてやるところにある。
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第二巻』復刻版、岩波書店、
1985年、p.414)

 

日本における明治以降の学校教育を考えるとき、
ペスタロッチーさんは外せませんので、
いくつかある伝記のなかからハインリヒ・モルフさんの『ペスタロッチー伝』をえらび、
読んでいます。
わたしが読んでいるのは、
復刻版ですが、
もとの訳書は、第一巻が昭和14年ですから1939年の11月に発行されています。
ヨーロッパではすでに第二次世界大戦が勃発し、
日本でも翌々年、
太平洋戦争に突入していきます。
そういう時代の空気のなかで、
長田新(おさだ あらた)さんのこの訳書が出版されました。
引用した文章は、
ペスタロッチーさんを深く理解し、
協力を惜しまなかった若きニーデラーさんという方が雑誌に発表したもの。
ニーデラーさんは、已むに已まれず、原稿を書き、
この雑誌に投稿しました。
というのは、
ペスタロッチーさんの学校を小一時間ほど視察した牧師が、
いかにも底意地の悪い、悪意に満ちた文章を、
同じ雑誌に発表したからです。
どこにもいますね、そういうやから。
重箱の隅をつつくようにして、
ことがら、人物のいいところを見ないで、
見ようともしないで、
あらさがしを趣味とするような愚物。
そんなやからは、
はなから問題にしないという行き方もありますけれど、
世の中はまた、
そんな愚物によって左右されるところがあり、
放っておくわけにもいきません。
ニーデラーさんは、
尊敬するペスタロッチーさんが、
ペスタロッチーさんの学校が、
ペスタロッチーさんの学校の子どもたちが
腐されるのをだまって見過ごすことができなかったのでしょう。

 

・緑浴び尚まなうらの緑夜かな  野衾