人生の不思議
三十代のある日、夜の集会で、私は声を大にして、私たちはきよくなければならない
と説きました。
集会後、
一人の青年がつかつかとやって来て、
こう言ったのです。
「きよくなるということが、先生のようになることなら、私にはいりません」
〝頭の後ろをガーンと殴られたような″
という表現そのものに、
私はそこに立ち尽くしました。
しかしそれは、
牧師は語ったように自分が生きなければ、
人の心を動かすことはできないということを、
その人を通して主が教えてくださった貴重な経験でした。
十年経ったころに、
説教について、
妻から言われたことばも忘れられません。
「開拓のころ、あなたの説教は何を言いたいのかよく分かりませんでした。
でも、聴いていて涙が出ました。
このごろは少し分かるようになりましたが、
涙が出なくなりました」
嗚呼《ああ》。
そのころ、V・レイモンド・エドマンの『人生の訓練』(いのちのことば社)にふれ、
「聖書はこういうふうに読むものか」
と目が開かれる思いがしたことを忘れられません。
「ただひとり 大いなる不思議を行われる方に。
主の恵みはとこしえまで」(詩篇一三六・四)
(野田秀[著]『牧師という生き方』いのちのことば社、2018年、pp.29-30)
野田秀(のだ しげる)さんは牧師ですから、「開拓」というのは、
開拓伝道のことでしょうね。
読んだとき、
すぐに新井奥邃(あらい おうすい)のことばを思い出しました。
いわく、
世に神秘を嗤《わら》ふ者あり。学者に多し。思はざるの甚《はなは》だし。
凡《およ》そ清浄なる者は是れ神秘に由らざるはなし。
皆《みな》神の美に本源すればなり。
(『新井奥邃著作集 第五巻』春風社、2001年、p.172)
わたしが横須賀にある高校で教員をしていたとき、
国語の先生で、Sさんという方がいました。
お酒が好きで、酒が入ると、よく「人間」「人生」の二語を口にされた。
そのときは聞き流していましたが、
どういうニュアンスでおっしゃられたのか、
気になります。
いまとなっては分かりませんけれど、
口にされたときの表情を思い浮かべながら、
想像することはできます。
Sさんは、
お父さまが新聞社の記者をされていたそうで、
Sさんが高校生のころ、秋田に赴任することになり、
家族ともども秋田に引っ越し、
Sさんは、
わたしと同じ高校に入学したのだとか、
高校時代のことを感慨深げに話してくださいました。
横須賀の地で、同じ職場で、母校の先輩に会えるのも不思議なことでありました。
・新緑を光の魚の泳ぐかな 野衾