われわれが自然に見入るとき、いたるところ、どんなに微小なもののなかにも、
形相《すがた》がわれわれにむかって喜ばしい光輝を放ちかけている。
われわれ人間の生活もまた美の本質的な意味をわれわれに悟らせようと働きかけている。
われわれ自身、
美しい心とか美しい行為とかいった言葉を使い、
それでもってたんに良き心、良き行為といった場合以上のものを意味している。
自然を欺くことはできない。
行為と心との真の高邁さは身振りの美しさに現われる。
これは意識的に真似のできるものではなく、
迎合的な動作のもつ外面的な魅力とは容易に区別できる。
献身的な親切、祝福、愛情のこもった理解、奥床しさ、乙女の清純さ、
こうしたことのこめられた自然な身振りは、
我欲、狭量、吝嗇《りんしょく》、悪意、暴力等々の表出と身振りにひき比べなんと美しい
ことだろうか。
善が真正なものであるかぎり、
また魂が神の庇護の下にあるかぎり、
それらはいつもその真理を美としてわれわれに語りかけてくる。
苦悩に襲われた人の顔でさえ、
苦悩が人間を放埓に、卑小に、陰鬱に、邪悪にする
ことなく、
あらゆる重圧にもかかわらず、
永遠なるものの息吹によってその人間に不思議な高揚をもたらすかぎり、
その顔はいとも美しいものとなる。
(ワルター・フリードリヒ・オットー[著]辻村誠三[訳]
『神話と宗教 古代ギリシャ宗教の精神』筑摩叢書、1966年、pp.104-5)
WBCの決勝でアメリカを制し、日本チームが優勝しました。
インターネットを通じ、
いろいろな情報を知ることができ、
テレビで見た映像とあわせ、いろいろ考えさせられます。
お笑い芸人・ナイツの塙さんは、
野球通としても名がとおっているそうですが、
彼が、
佐々木朗希選手が所属した高校時代のチームの監督に触れたことを知り、
なるほどと思いました。
当時、
地方大会の決勝戦で佐々木に投げさせなかった監督の采配に対して批判があったことは、
わたしも記憶していますが、
塙さんは、
あのことも、
今回の大舞台で佐々木選手が活躍したことにつながっている、
そういう趣旨の話をしたようです。
あれも、これも、
つながって、
選手たちのあの表情になっているのかと。
決勝の九回表、
大谷の球を三振したトラウトの表情も忘れられません。
・水溜まりむかしの春の野道かな 野衾