自然に触れる

 

石井は子どもの文学と大人の文学を区別して考えたことがないと常々語っていた。
しかし、
ひとつだけ決定的な違いがあると思う。
子どものための文学は、
どんなに悲しみや不安を描いても、
根底には幸福と希望をたっぷり湛え、幸福を約束していなければならない。
子ども時代はたちまち終わってしまうけれど、
その時出会った子どもの文学は、
人間の一生をずっとどこかで肯定し続ける力を持ち得るものだからこそ。
それは
大人の文学が性と死の苦悩を抜きにして成り立たない
のと対照的だ。
大人たちこそ、
だからたまには子どもの本を読んで、
幸福感を取り戻してもいい。
子どもの文学の喜びが、
石井桃子に長い生涯を与えたのではないだろうか。
(尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』新潮社、2014年、p.547)

 

子どものころ、わたしは、
子ども向けに書かれた『ファーブル昆虫記』を学校の図書室から借りて読んだだけで、
いわゆる「子どもの本」を読んだことがありませんでした。
「子どもの本」を読んだのは、
大学生になってから。
世の中に、こんな面白いものがあるのかと、
遅ればせながら思いました。
なので、
遅れてきた子ども、
であります。
その後、
親しくしている近所の子どもから、
メアリー・ポピンズやドリトル先生のシリーズ
など、
名前は知っていたけど、読んでいなかった本について、
その面白さを教えてもらい、
すすめられるままに読んでみたら、
止められなくなりました。
それでこんなふうに考えます。
言い訳になりますが、
「子どもの本」を読まなかったわたしにとりまして、
弟といっしょに遊んだ自然が「子どもの本」だったのではないか、
と。
秋田の田舎でしたから、
川や山や野や道や、鶏小屋、馬小屋、作業場の二階、
樹の上、土器の森、ふらっぱのネコヤナギ、藁、
風、雨、空、土、日、火、
……
言い訳を重ねれば、
「子どもの本」に通じる喜びは、
自然のそちこちに満ちて芽をだし、
手をのばせば、
じかに触れることができた。
だから、
文字を通じて自然に触れる喜びと、また、こころとあわせ、
その思い出を体感できるのが、
「子どもの本」かな、
とも思います。

 

・珈琲の香のうつろひや水温む  野衾