信について

 

私たちの心と精神は明確さを欲します。
事態の明確な状況や、物事のはっきりとした見通しや、
また、自分自身や、
世界で問題になっていることを明確に把握することを好みます。
けれども、
自然界において色や形は
はっきりとした区別なしに混然と存在している
のと同じように、
人の一生は私たちが求めているような明確さを与えてはくれません。
愛と憎しみ、善と悪、美しさと醜さ、
英雄的な行為と卑劣な振る舞い、
心にかけることと無関心、
有罪と無罪、
これらの境目はたいていぼんやりとしてあいまいで、
区別しにくいものです。
あいまいさに溢れた世界で誠実に生きるのは、
やさしいことではありません。
完全に確信出来なくても、
賢明な選択をすることを学ばねばなりません。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.125)

 

こんかいのWBCにおいて、感動したシーンはいろいろありましたが、
そのうちのひとつが、
準決勝九回裏の攻撃で逆転サヨナラの一打を放ち、
歓喜のうちにホームに還り、
栗山監督と抱き合った村上宗隆さんのシーン、
それと、
そのときのふたりのことば。
監督が「おそいよムネー!!」と言って迎えたのに対し、
村上さんは、
ことばを発すると泣きそうだったらしく、
「シャーッ!!」
しか言えなかった、
とか。
なるほどと思いました。
抱き合ったシーンにも増して、
ふたりの短いことばのやり取りに、
万意がこめられている
と感じました。
栗山さんは、「最後はお前で勝つんだ」と言っていたそうですが、
いやいやどうして、
胸のうちは、
いろいろいろいろ、
また、
さまざまなことが脳裏を駆け巡り、
葛藤が激しく渦巻いていただろうと想像します。
太宰治の「走れメロス」を初めて読んだときの感動がよみがえりました。
信と疑は地つづきで、
くっきりと境い目があるわけではありません。
日ハム時代からいっしょで、
こんかいコーチを務めた人に、
ぽつり
「もういちど監督をやってくれと、おカネを積まれても、やらない」
と栗山さんが漏らした、
そのエピソードをコーチがテレビで語っていましたが、
然もありなん。
やせ細るほど身を粉にし、
考えに考え抜いたうえでの判断と選択が、
「思い切っていってこい」
のことばになり、
それが最後のシーンを演出し、
奇跡的な勝利につながったのだと思います。

 

・花曇り大岡川に小舟揺れ  野衾