ギリシアの神々

 

ギリシャ人は事物の根柢に、それが人間に幸を意味しようと不幸を意味しようと、
そんなことにはこだわりなく、
形相すがたをもったもの、美しきもの、永遠に喜ばしきものを探し求め、
そしてそれを見出したのであったが、
そのとき問題であったのは願望でも意志でもなく、
事物の存在についての生きた知(「知」に圏点)であった
のである。
それゆえにこそギリシャ人に対して
――そして全人類のうちひとりギリシャ人に対してのみ――
オリュンポスの神々が現われたのである。
オリュンポスの神神の至福な安楽のなかに全存在の根源的に神聖な秘密が現われている。
神々が「安楽のうちに生を送る者」
であることは、
彼らの作用と活動とが一切の事物にいき亘っていることと矛盾しない。
それは生存ダーザインの根源の深淵においては、
すべてが軽やかで、静寂で、
喜ばしいにもかかわらず、
そのことによって生存の重圧が少しも軽減しないことと軌を一にしている。
だが生存は
その一切の苦難、悲哀、破滅をくるめて永遠なるもののうちに、
つまり神々のうちに納められている。
「そして、一切の葛藤、一切の苦闘も、主なる神々のうちにおいては永遠の静寂である。」
(ゲーテ)
(ワルター・フリードリヒ・オットー[著]辻村誠三[訳]
『神話と宗教 古代ギリシャ宗教の精神』筑摩叢書、1966年、pp.105-6)

 

この本を読んでいると、とくに、引用した箇所をくり返し読んでいるうちに、
これって、
W・F・オットーでなく、
ハイデガーが書いているのでは、
という気になってきます。
存在の「顕現的秘匿」性をパラフレーズすると、
こんな言い方にもなるか、
と。
そして、
人間と神々の決定的な違いは何か、
といえば、
それは、
人間が死すべきものであるのに、
神々は死なない、
ということ。
ゲーテが「美」について、「根源的現象」であると喝破したこととも
ひびいているようです。

 

・ながむればものみな黙し霞むかな  野衾