さびしさを

 

廿二日 朝の間雨降。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書してあそぶ。
其ことば、
「喪に居る者は悲《かなしみ》をあるじとし、
酒を飲《のむ》ものは樂《たのしみ》あるじとす。」
「さびしさなくばうからまし」
と西上人《さいしやうにん》のよみ侍るは、
さびしさをあるじなるべし。
(松尾芭蕉「嵯峨日記」より。
中村俊定校注『芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記』岩波文庫、1971年、p.127)

 

しずかなことばが身に沁みます。
松尾芭蕉は、はるかに見上げる文人ではありますが、
引用したような文言に出くわすと、
山からすたすた下りてきて、
すぐとなりに居るような錯覚をおぼえ。
じぶんの楽しみとして、
荘周、西行を読み、
また書いていたことを知り、
その姿、空間、時間、気配までがしみじみと想像され、
文を読むことの味わいを改めて思い、
見知らぬ芭蕉が親しき友のようにすら感じます。

 

・竹林を漏れて光の溽暑かな  野衾

 

人不知而不慍

 

論語「学而第一」の冒頭に三つのことが出てきます。
一つ目
「学びて時に之れを習う、亦た説ばしからず乎」
二つ目
「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからず乎」
これまで幾度か論語を読んできて、
この二つについては、
じぶんの体験とも重ね合わせ、口に上らせ、
なるほどと合点がいき、励まされ、
慰められてきました。
それにたいして三つ目の
「人知らずして慍《いか》らず、亦た君子ならず乎」
を、
これまで看過してきた
わけではないけれど、
ふかく思いを致すことなく過ぎてきた気がします。
ところが、
今月五日に装丁家の桂川潤さんが亡くなり、
そのことを知って以来、
桂川さんのことがことあるごとに蘇り、
そのたびに考え、また考え、
彼の存在がいかに大きかったかを思い知らされています。
じぶんの勉強がつねに人から認められるとは限らない、
人から知《みと》められないことがあっても、腹を立てない、とはいうけれど、
そのことがいかに難しいか。
人から知《みと》めらるということは、
世間的な評価とは違う。
点数で測られるのではなくて、
たのむことをしなくても、こちらの動機の所在に寄り添ってくれ、
それにふかく感応し、
ともに悲しさの鈴を鳴らしてくれる。
その音に耳を澄ますことで生のバランスが保たれる。
そんなふうにも思います。
桂川さんがいなくなり、
鈴の音がひとつになってしまいました。
引用した箇所の孔子の文言の最後「君子ならず乎」は、
なにも君子になろう、また、君子になりたい、ということではなかったでしょう。
むしろ、
むずかしい世の中において、
いかに慍ることの多くあったかを証していることばではないか。
さびしい日がつづきます。

 

・夏草や鬱は伸びゆくいのちなり  野衾

 

反復を生きる

 

ここで思い出していただきたいのは、昔の日本では、体験の新奇さを述べることが、
旅人の目的ではなかったということである。
かくかくの山の頂きを初めて極めたなどということを、
誇らしげにいうのは、ヨーロッパ人である。
日本人は、
先人がすでに体験したことを、
いわば再体験することを常に望んだのである。
(ドナルド・キーン[著]/金関寿夫[訳]『百代の過客』講談社学術文庫、
2011年、p.193)

 

日本人の感性が、峻険な山々に囲まれた地で、
工夫に工夫を凝らし、
三〇〇〇年の時間を超えて水田稲作に従事してきたなかで鍛えられたところが大きい
のではないか、
との想像が、ふと、あたまをよぎって以来、
そのことをつらつら思いめぐらす日々がつづいている。
わたしの父、また叔父が、
六十年、七十年にわたり日記をつけていることと併せ考えてみると、
はたから見れば、年年歳歳、
くり返しにしか思えない農作業の一日一日が、
微細に見れば、
じつに多くの差異と変化、起伏に富んでおり、
そこに、
ことば以前の喜びと感謝が充溢しているのではないか、
そんなふうにも思えてくる。
齢九十八で亡くなった祖父が、
最後に稲の苗を見たがったことも考え合わせられる。
もう少し、いろいろ読んで、考えたい。

 

・物干しにさきほどよりの大き蠅  野衾

 

希望の風景

 

これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです。
それで私たちは、聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです。

 

三十一年ぶりに翻訳がなった聖書協会共同訳聖書の
「ローマの信徒への手紙」第15章4節。
四十数年前、
わたしが大学に入りすぐに求め、くり返し読んできた口語訳聖書では、

 

これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教《おしえ》のために書かれたのであって、
それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

 

ヘボン、ブラウンらを中心に翻訳が開始され、
1887年に新訳旧約の翻訳がそろい、明治時代以来よく読まれてきた、
いわゆる文語訳聖書では、

 

夙《はや》くより錄《しる》されたる所は、みな我らの教訓《おしえ》のために錄ししものにして、
聖書の忍耐と慰安《なぐさめ》とによりて希望《のぞみ》を保たせんとてなり。

 

《  》内は、実際はルビ。ちなみに聖書はすべての漢字にルビが付されています。
平仮名が読めるものは誰でも、子どもも読めるように、
という願いを込めてでしょうか。
それはともかく。
くり返し読んできた聖書ですが、
どの訳で読んでも、
希望、あるいはのぞみ、ということばによって喚起される生の風景は、
永遠の現在の貌を見せてくれているようです。

 

・物干しに体かためて梅雨の蠅  野衾

 

日記的

 

横須賀で高校の教員をしていたころ、
夏休みの宿題として読書レポートを生徒に課していた時期がありました。
けっこうつづけた記憶があります。
わたしがえらんだ五十冊に、
短くそれぞれの本の紹介文を入れ、
B4判の紙に、
あのころはまだタイプライターだったか、
ガチガチ打って、
生徒に配りました。
そのなかの一冊にたしか、
富山和子さんの『水と緑と土』が入っていたと思います。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』
との関連で取り上げたのだったかもしれません。
あれからずいぶんと時間がたってしまいましたが、
いままた富山さんの
『日本の米 環境と文化はかく作られた』
を読んでいます。
ドナルド・キーンさんの『百代の過客』から、
日本人の感性の奥底に、
水田稲作によって錬成されたものが息づいているのではないかという想像を、
先日このブログに書きましたが、
富山さんの本を読むことでなおいっそう、
米づくりと日記的感性の重なりを思わずにはいられません。
「日本の田んぼはダムである」
との見方を、
最近は割と目にすることが多くなりましたが、
それを最初に唱えたのが富山さんです。

 

・ゆつくりと栗鼠電線を梅雨曇り  野衾

 

桂川潤さんを悼む

 

今月五日、装丁家の桂川潤さんが病気のため、亡くなりました。六十二歳。
春風社、また、わたしとは十年を超える付き合いになります。
二〇〇九年九月に拙著『出版は風まかせ』
を上梓しましたが、
それから一年ほどたち、
面識がなく、どういう方か存じ上げない人から本を贈られました。
『本は物である――装丁という仕事』
がそのタイトル。
著者の名は桂川潤。装丁家。
高著のなかに、
拙著のなかの文言が引用されており、
巻末の人名索引には、わたしの名がありました。
ご恵贈いただいたことに対するお礼の手紙をお送りしたところ、
今度は日本酒が送られてきました。
すぐに電話でお礼を申し上げようとしましたが、
それでは儀礼的すぎる、
と思い直し、
会社にある湯呑を持ち出し、
一杯飲んで味を確かめたうえで、桂川さんに電話をし、
お礼を伝えました。
飲んだうえでの電話であることを知った桂川さんは、
とても喜んでくださり、
わたしは、
桂川さんの声、話しぶりから、
まだお目にかかったことがないのに、
なんてきれいなひとなんだろうと思いました。
あれから十一年近く、
公私ともに親しくさせていただきました。
春風社の本の装丁は、数えていませんが、百冊に近いと思います。
いっしょに山を歩き、酒を酌み交わし、俳句を作りました。
物としての本を愛し、
本づくりにいっしょうけんめいでした。
齢が近いということもあり、
本の話、音楽の話、旅の話、会えばすぐに盛り上がりました。
口をすぼめ、少し高音で話す話しぶりが特徴的で、
なんてチャーミングな人だろうと思いました。
そして、なんとなく、
わたしの勝手な感じ分けですが、
どの話の底にも悲しみが湛えられていた気がします。
ツイッターで、
ハンス・キュンクの浩瀚な『キリスト教――本質と歴史』を装丁されることを知り、
電話で刊行予定を問い合わせたところ、
予定を教えてもらい電話を切ったのですが、
すぐ後で、
メールが届き、
「三浦さんが読むのなら、装丁家としていただける本を差し上げます。
読む本がいっぱいあり、
わたしが読むのは、もっと先になるでしょうから、
三浦さんにプレゼントします。
本にとっても、読んでもらえるのがいちばんの幸せですから」
とありました。
電話で聴いたさいしょの印象どおり、
桂川さんは、こころのきれいな人でした。
残念です。
ご冥福をお祈りします。

 

・傘外し喜雨全身に浴びにけり  野衾

 

日記生活六十年

 

秋田の父が日記をつけ始めてから七十年ほどたち、
狭い田んぼから最大量の米を収穫するのに日記がいかに役立つかについて、
すでにこの欄に書きましたが、
すぐ近くに住み、
父を助けて米づくりをしている父より九歳年下の叔父が、
父とは関係なく、
父とは別に、
六十年ほど日記をつけていることを、
つい最近知りました。
博文館の五年日記を使用しているのだとか。
ちなみに父の愛用は三年日記。
叔父に直接電話しいろいろ聴いたなかで、印象にのこったのは、
日記をつけないと、一日が終った気がしない、
ということ。
床に就いて、一日を振り返り、
農作業のことはもちろん、
たとえば、
パチンコでいくら勝ったか、負けたかなども、
ちゃんと記録しているらしい。
記録は明日への活力となり、
「いのちの根」であるイネを産む。
わたしのこのブログ「港町横濱よもやま日記」は二十年を過ぎた程度だから、
まだまだひよっこ。
ドナルド・キーンさんの慧眼をきっかけに閃いた、
日記と日本の農業、文化との関連について、
しばらく、
いろいろ読んで、
さらに考えたいと思います。

 

・ノースリーブ火傷の痕に蚊の来る  野衾