人不知而不慍

 

論語「学而第一」の冒頭に三つのことが出てきます。
一つ目
「学びて時に之れを習う、亦た説ばしからず乎」
二つ目
「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからず乎」
これまで幾度か論語を読んできて、
この二つについては、
じぶんの体験とも重ね合わせ、口に上らせ、
なるほどと合点がいき、励まされ、
慰められてきました。
それにたいして三つ目の
「人知らずして慍《いか》らず、亦た君子ならず乎」
を、
これまで看過してきた
わけではないけれど、
ふかく思いを致すことなく過ぎてきた気がします。
ところが、
今月五日に装丁家の桂川潤さんが亡くなり、
そのことを知って以来、
桂川さんのことがことあるごとに蘇り、
そのたびに考え、また考え、
彼の存在がいかに大きかったかを思い知らされています。
じぶんの勉強がつねに人から認められるとは限らない、
人から知《みと》められないことがあっても、腹を立てない、とはいうけれど、
そのことがいかに難しいか。
人から知《みと》めらるということは、
世間的な評価とは違う。
点数で測られるのではなくて、
たのむことをしなくても、こちらの動機の所在に寄り添ってくれ、
それにふかく感応し、
ともに悲しさの鈴を鳴らしてくれる。
その音に耳を澄ますことで生のバランスが保たれる。
そんなふうにも思います。
桂川さんがいなくなり、
鈴の音がひとつになってしまいました。
引用した箇所の孔子の文言の最後「君子ならず乎」は、
なにも君子になろう、また、君子になりたい、ということではなかったでしょう。
むしろ、
むずかしい世の中において、
いかに慍ることの多くあったかを証していることばではないか。
さびしい日がつづきます。

 

・夏草や鬱は伸びゆくいのちなり  野衾