日記・歳時記・水田稲作

 

日本兵の日記は、もう一つ別な理由からも私を感動させた。
アメリカの軍人は、日記を付けることを固く禁じられていた。
敵の手に渡ることをおそれてのことである。
しかしこれは、アメリカ人には何等の苦痛も与えなかった。
どちらにしても、日記を付ける人間など滅多にいなかったからである。
ところが日本の軍当局も、
日記が敵を益するおそれがあることは重々承知していたにちがいないが、
陸海軍共に、
軍人が日記を付けるのを禁止することはなかった。
それどころか、日本の軍人には、新年になるとわざわざ日記帳が支給されて、
この頃の学童が、夏休中日記をつけさせられるのにも似て、
必ず日記をつけるようにと命じられたのである。
おそらく日本の士官たちは、
その中に真の軍人精神が表れているかどうかを調べるために、
定期的に兵隊の日記を読んだのであろう。
あるいは、
日記を付けるという行為が、日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位をしめているので、
それを禁じるのは、
むしろ逆効果となるおそれがあることを、知っていたのかもしれない。
理由はともかく、
結果としては膨大な量の日記が、日々生産されることになったのである。
(ドナルド・キーン[著]/金関寿夫[訳]『百代の過客』講談社学術文庫、2011年、pp.25-6)

 

来月九十歳になるわたしの父は、二十代の頃から日記をつけ始めた。
昭和43年(1968)には、反当り収量が相当多かったらしく、
石川理紀之助が始めた種苗交換会にとどけを出し、
県の農業協同組合から表彰されている。
昭和43年といえば、わたしが十一歳、小学五年生のときのこと。
さて、
上で引用したドナルド・キーンさんだが、
この本の冒頭で、
日記が、小説や随筆その他の文学形式に劣らぬぐらい重要と考えられているのは、
世界広しといえども日本だけである、
と喝破している。
キーンさんは、
「理由はともかく」と記しているが、
わたしはそのことが気にかかる。
わたしの想像をいえば、
日本人が日記をつけるのは、水田稲作によって錬成された精神によるものではないか、
ということだ。
日本は海に囲まれた島国で、
険しい山々が連なり、自然環境ゆたかとはいうけれど、
気候変動が激しく、
台風に見舞われることが多い。
日本の原風景として、テレビでもよく棚田が紹介されるが、
わたしの田舎もそうだったように、
平地はそこそこあるにしても、
日本はかつて、どこもかしこも棚田だらけだっただろう。
狭い土地に稲を植え、米を育て、多収穫をもくろめば、自然と労働集約的にならざるを得ない。
日々の努力と研鑽が何よりも必要だ。
二宮金次郎を代表的日本人のひとりに挙げた内村鑑三は、
その意味で慧眼だったと思われる。
米の収穫量を多くするためには、気象を睨み、経験を積み、日々の努力が欠かせない。
去年、おととし、三年前、四年前、二十年前のきょう、
田仕事として自分は何をしていたか、
それを記録する日記は、
ことしの収穫をもたらすためのいわば「仕事師の手帳」ともいえる。
二宮金次郎も日記をつけていた。
日記ともう一つ、
歳時記のことが気にかかる。
俳句をやるものにとって歳時記は欠かすことができないが、
わたしは、
季節の細かな移ろいに敏感な、
いわば歳時記的な感性も、水田稲作によって鍛えられたものであろうと考える。
日本に水田稲作が伝えられたのは、
紀元前950年ごろ。
古事記、日本書紀、万葉集の成立が8世紀であるから、
この間、1600~1700年の時間が流れている。
そのあいだにも、数えきれないほどの大型の台風が襲ってきただろう。
季節季節の移ろいのなかで、
気象の変化にもめげずに収穫の最大化を目指し工夫することで、
やがて余剰の米を生産できるようになり、
権力者の登場を歴史に用意し、古墳時代を現出させるに至ったのではないか。
乱暴な、また勝手な想像にすぎないけれど、
そんなに的を外していない気がする。
父は、齢九十を目前に、
指がだんだん利かなくなっているけれど、鉛筆を五本指で握りしめ、
相変らず、日記をつけている。

 

・紫陽花や恵みの倉の雨に染む  野衾