反復を生きる

 

ここで思い出していただきたいのは、昔の日本では、体験の新奇さを述べることが、
旅人の目的ではなかったということである。
かくかくの山の頂きを初めて極めたなどということを、
誇らしげにいうのは、ヨーロッパ人である。
日本人は、
先人がすでに体験したことを、
いわば再体験することを常に望んだのである。
(ドナルド・キーン[著]/金関寿夫[訳]『百代の過客』講談社学術文庫、
2011年、p.193)

 

日本人の感性が、峻険な山々に囲まれた地で、
工夫に工夫を凝らし、
三〇〇〇年の時間を超えて水田稲作に従事してきたなかで鍛えられたところが大きい
のではないか、
との想像が、ふと、あたまをよぎって以来、
そのことをつらつら思いめぐらす日々がつづいている。
わたしの父、また叔父が、
六十年、七十年にわたり日記をつけていることと併せ考えてみると、
はたから見れば、年年歳歳、
くり返しにしか思えない農作業の一日一日が、
微細に見れば、
じつに多くの差異と変化、起伏に富んでおり、
そこに、
ことば以前の喜びと感謝が充溢しているのではないか、
そんなふうにも思えてくる。
齢九十八で亡くなった祖父が、
最後に稲の苗を見たがったことも考え合わせられる。
もう少し、いろいろ読んで、考えたい。

 

・物干しにさきほどよりの大き蠅  野衾