孔子と少正卯

 

魯国の都において、孔子塾に対して、
少正卯《しょうせいぼう》という人物の塾も相当な勢力があったらしい。
孔子にとってライバルである。
だから、
孔子は五十歳をすぎて魯国の閣僚となったとき、
ライバルの少正卯をただちに暗殺している。
おそらく少正卯の塾を解体するためであっただろう。
(加地伸行『儒教とは何か 増補版』中公新書、2015年、p.99)

 

引用した箇所に出てくる少正卯について、わたしは知らずに来ました。
『史記』も割と最近読んだのに、
こんな大事なことを見逃していたのかと、がっかりします。
気になりましたので白川静さんはどんなふうに取り上げているか、見てみました。

 

[史記]はなおこのあとに、翌十四年、大司寇より宰相のことを摂し、
大夫少正卯を誅殺した事件を特筆している。
その話は[荀子]宥坐篇に初見し、
秦漢以後の書には、しばしばみえる有名な事件である。
[荀子]によると、
少正卯は、「居處は以て徒を聚めて群を成すに足り、言談は以て邪を飾り、
衆をまどはすに足る」小人の傑雄であったという。
「青年を堕落させる」詭弁学派であったらしい。
陽虎にしても少正卯にしても、
孔子が最も鋭く対立したものは、どこかで孔子に最もよく似ている相手であった。
(白川静『白川静著作集 6 神話と思想』平凡社、1999年、p.315)

 

う~ん。ちなみにちょうどいま『荀子』を読んでいますので、
ずっと後ろのほうに登場する「宥坐篇」のその箇所にあたってみました。
するとたしかに、少正卯誅殺の記事があり、
つづいて、少正卯を無き者にしたことに対する弟子の疑問に答え、
孔子が語ったとされる文言が記されています。
さて、この事実をどう見るか。
短兵急に答えを出すことは慎まなければなりません。
中国でもいろいろに議論されてきたようです。
論語好きの渋沢さん、また、吉川幸次郎さんは、どう見ていたのだろう。

 

・守られて早うとうとと蚊帳のなか  野衾