贈答詩の根底にあるのは、詩人と詩人の間に交わされる友愛の思いです。
中国では恋愛詩よりも友情の詩が目立つことはつとに指摘されてきましたが、
贈答詩や送別詩こそ、
友情を語る詩篇と言えましょう。
そこには友への思慕の情、一人でいる時の寂寞たる思い、
そしてしばしば相手に対するはげましの言葉が添えられます。
陸機《りくき》の「馮文羆《ふうぶんひ》が斥丘令《せききゅうれい》に遷るに送る」
の第四章(一五〇頁)などは、
友情の気高さ、美しさそのものを語っています。
(『文選 詩篇(三)』岩波書店、2018年、p.3)
ただいま斉藤恵子先生の『漱石論集こゝろのゆくえ』という本を編集しています。
先生は、
六十年漱石を読み、研究して来られた方。
いわばライフワークを一冊にまとめるものとなりますが、
そのような仕事に関われることが、
ありがたく、
また、うれしく思います。
わたしは、
漱石の『こゝろ』から本の世界に入りました。
高校の一年生のとき以来、
これまで三度読んでいますが、
『こゝろ』のなかで「先生」が発する
「恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
のことばは、
さいしょに読んだときから目にとまりました。
味わい深いことばだと、
今も思います。
しかし、
杜甫のものをはじめとするすぐれた詩、
また、
杜甫が手本にした『文選』を少しずつ読んでいると、
年齢を重ね、経験を積み、ときに苦汁を嘗めたもの同士の友情が、
みじかいことばで、
石に刻むかのごとく記されてあり、
その味わいは、
いまわたしの年齢になって読んでみると、
とても新鮮に感じ、立ち止まり、ことばを失います。
詩が分からずに来て、
いまもけして分かったとは言えないけれど、
これからさらに『文心雕龍』『詩品』にすすみ、
かの国において詩が、詩のことばが、どうとらえられていたかをさらに知りたく思います。
・梅雨湿り高調子にてをのこかな 野衾