ウジ

 

 夏風邪やそろそろ離れてよろしかろ

横浜駅の地下街に天龍というお寿司屋さんがあります。
小さいお店ですが、
わたしのこの頃のお気に入りです。
ご主人は、おそらく三十代でしょう。
ちゃんとしたお寿司屋さんで相当
修業を積んだものと思われます。
奥さんと母親らしき女性が手伝っています。
わたしは、あいさつと注文する以外、
話したことがありません。
まだ四度目でして。
きのうは、
わたしが入ったときは
先にお客が二人しかいませんでしたが、
すぐにいっぱいになりました。
ご主人も、わたしとはともかく、
なじみのお客さんらしき人とも、
ほとんど話をしません。
母親とおぼしき女性が、ちょっと声を掛けるぐらいです。
わたしは四度とも、入ってすぐのカウンターの
入口から二つ目の椅子に座りました。
若いご主人は、
カウンターでわたしが注文しても、
その前に注文された品があると、
それがお土産であっても、そちらを先にします。
悪い気はしません。
それが方針なのでしょう。
今日はお客さんも多いし、
そろそろ帰ろうかなと思ったちょうどその時、
母親らしき女性から、
「どうぞご注文なさってください」と
声を掛けられました。
わたしがおとなしく座っているのを
気遣ってくれたのでしょう。
「はい。ありがとうございます」
と答えたてまえ、
すぐに帰ることは憚られました。
「でもなあ。今日は客も混んでいるし。
きっと時間掛かるよなあ。しゃあないか」と心の声。
そして、わたしはご主人に向かって声を発しました。
「ウジください!」
気功教室の時間が刻々と迫ってきて、
我ながら焦っていたのでしょう。
ウニとアジを頼むつもりが、ごっちゃになって、
しかも、ウニの「ニ」とアジの「ア」が落ち、
「ウジ」になってしまいました。
わたしは自分の間違いにすぐ気づき、
「いえ。ウニとアジをください!」と訂正。
ご主人、にこりともせずに、
「ウニとアジですね。かしこまりました」
結局、
気功教室は大幅に遅刻してしまいました。

 入梅や人も天気も壊れけり

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アイゼンハワーTシャツ

 

 梅雨晴れて今日もハズレだ天気予報

事前に電話で連絡があり、原稿を持ってKさん来社。
暑い中、紅葉ヶ丘の山の上まで
ネクタイ、スーツ姿でお越しくださいました。
他社から二冊本を出されていますが、
春風社の既刊本の中に参考文献として自著が上げられており、
それで興味を持ってくださったとのこと。
Kさんの三冊目となる本は、
アイゼンハワーの生涯を記したものです。
アイゼンハワーといえば、
アメリカ合衆国の第34代大統領にして、
第二次世界大戦におけるヨーロッパの連合軍最高司令官です。
歴史の教科書に出てくる「偉い人」。
社の真ん中の楠のテーブルを囲み、
しばらくお話を伺い、
まずは原稿を預からせていただいて、
ということになりました。
するとKさん、
突如立ち上がったかと思いきや、
ワイシャツのボタンを上から外し、
バッと胸を開いたではありませんか!
まるでスーパーマンです。
そこにSの文字はなく、
アイゼンハワーの絵がでかでかと描かれていました。
アイゼンハワーは1890年に生まれていますから、
今年は生誕120周年にあたります。
そういう意味も込め、原稿を執筆し、
Tシャツを作って自らを鼓舞しているのかもしれません。
そこにいた専務イシバシ、武家屋敷は、
男性がいきなり立ち上がりシャツのボタンを外し、
胸をはだけたものですから、
口に手を当て、あわわ、あわわと眼を白黒させています。
ぼくはといえば、
Kさんのアクション、Tシャツがすっかり気に入り、
「先生、本が出来たあかつきには、
マスコミに持っていって、
今みたいにバッ! と胸を開いたらいいですよ。
絶対にウケます!」
なんだか、とってもたのしく、
うれしくなりました。

 長靴を笑はれ怨めし天気予報

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 入梅や天気予報当たりけり

営業で大学回りをしているものあり、
著者との打ち合わせに出かけているものあり、
代休を取るものありで、
会社にいる人数が極端に少なく、
いたって静かな一日でありました。
注文の電話がもうちょっとあってもいいかな、
とは思いましたけれど、
仕事がはかどることこの上なし!
お香をくゆらしたりすると、
自分のいる場所が寺か会社か分からないぐらい。
なんてこともありませんが。
法隆寺』の著者・青江舜二郎の妹さんの同級生(!)
という方から電話がありました。
注文していた『法隆寺』が届いたお礼の電話でした。
電話に出たものの話によれば、
電話を下さった女性、
今年九十五歳とのことですが、
いたって元気、パキパキとよくお話される方だったとか。
電話を切った後その報告を受け、
水面にポチャンと小石が投げられ、
波紋が広がるような、そんなふうに
部屋の空気が変わるのを面白く感じました。

 入梅や競馬よりマシ天気予報

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表現の道

 

 夜灯下に人なし梅雨の気配せり

佐々木幹郎さんの近著『旅に溺れる』の最後に、
お父様の話が出てきます。
九十一歳でお亡くなりになりましたが、
お父様の若いときの歌を佐々木さんがまとめ、
『夕まけて』というタイトルの歌集を編み、
ご命日に出版されたそうです。
お父様の節雄さんは若い頃、
前川佐美雄に師事されましたが、
思うところあって、
途中から絵の道に行かれました。
生前、歌集をまとめることについて佐々木さんに
相談なさったことがあったそうですが、
佐々木さんは同意しませんでした。
その辺のところは、
読んでいて、胸に迫ってきます。
愛情こまやかな文章を読みながら、
この頃よく思う、
三代百年のことがまた脳裏をかすめました。
というのは、
言うまでもなく佐々木さんは厳しい表現の道で
ずっと精進してこられ、
詩人として名を成しておられますが、
『旅に溺れる』を読み、
お父様も表現の道で生きておられた方だと
初めて知ったからです。
わたしの周りを眺めても、
写真家の橋本照嵩さん、
画家・デザイナーの矢萩多聞さん、
映画監督の大嶋拓さん、それぞれ、
ご両親、祖父母の代から何らか表現の道をこころざし、
表現していた、していることが分かります。
表現の道は厳しく、
いのちを刻むような行為かもしれませんが、
それだけに、
三代百年の道の今日と思うことも大切なのではないか。
そんなことを思いました。

 黴避けて四十五度の風呂に入る

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読書三昧

 

 紫陽花や飯の炊けたる匂ひせり

まず一冊目は、バルザック『従姉ベット』。
『ゴリオ爺さん』『幻滅』『浮かれ女盛衰記』と
読んできての四作目。
こころの美しい人は死ぬまで美しく、
底意地の悪い人間はまた死ぬまで底意地悪いという、
まさに「人間喜劇」であるなと納得。
きのうから『従兄ポンス』に突入!
二冊目は、小林信彦『小説世界のロビンソン』。
これは、以前面白く読んだ本ですが、
古本屋に売ってしまい手元になく、
ネットで検索したら1円で(!)出ていましたので、
すぐに注文し入手したもの。
一気に読了。
この人の小説のとらえ方は共感するところが多く、
また、引き合いに出される作品の好みも似ていて、
そうなるともう、本を擱く能はずで、
気が付けば最後のページ。
本についての本としては、相当好きなのに、
なんで売り払ってしまったのか、
自分でも不思議。
三冊目は、佐々木幹郎『旅に溺れる』。
いろいろな媒体に発表してきたものを
一冊にまとめたエッセイ集で、
春風社関係は、
「春風倶楽部」から二点、
山本真弓『牡牛と信号――〈物語〉としてのネパール
から一点(同著の序文)収録されています。
書名も、
「春風倶楽部」にご寄稿いただいたエッセイと同じですから、
一段と親しみが湧き、うれしく思いました。
『小説世界のロビンソン』とはちがった意味で、
ぐいぐい読まされ、特に、
双子の弟さんが沖縄で倒れ、
すぐに飛行機で駆けつけ見舞ったときのお話「17ccの血」
の中の、
「わたしはそのとき、一瞬にして覚悟したのだった。
彼がこのままの麻痺の身体でいることを神が望むなら、
わたしはその半身になってやろう、と。」
の文章は、弟さんを思うこころが伝わってきて、
涙なしには読めませんでした。
以上、本と旅した二日間でした。

 天仰ぎクワガタ六脚うごめかす

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十一年ぶり

 

 思い出はくたりと哀しホタルイカ

以前勤めていた出版社の同僚から電話がありました。
インターネットで「ヨコハマ経済新聞」を
たまたま読んだそうです。
電話してくれたことが、ありがたい。
今は、組版の会社でDTPの仕事や
営業の仕事で外回りをしているのだとか。
話しているうちに、
彼の話しぶりの特徴が思い出されて、
愉しくなりました。
本を読んでいても、このごろ思うのですが、
意味は意味として、それよりも
言葉の周辺が愉しく味わい深い気がします。
文字も話し言葉も、
むしろ、記されない話されないことへの想像が、
働いて力あるのでしょう。
また主体としては、
書かないこと、話さないことを大事にしたいがために、
書いたり話したりするような気もします。
今度横浜で一杯やることになりました。

 裏参道空から湧くや夏の雨

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 息切らしジュンブライド睨みをり

横浜駅で偶然、
小学三年生のときの担任に会いました。
顔を真っ赤にして、ガハハ、ガハハと笑いますから、
まぎれもなくK先生です。
先生と二人で保土ヶ谷まで歩くことにしました。
先生は、けっこうお歳を召しておられるのに、
大股で、歩くのが速く、
遅れまいとしているうちに、
ぼくはだんだん汗が滲んできました。
川べりで、獲れたての貝を大量に茹でていました。
先生は、近づいていって一袋買っています。
売っているおばさんたちと、
なにやら話しています。
買ったばかりの貝の身を
爪楊枝でくるりと引き出し食べた先生に向かい、
おばさんは、
「どうじゃ。美味いだろ?」と訊きました。
「美味い。美味い」と先生。
先生は、よほどその貝が気に入ったらしく、
なかなか動こうとしません。
周りにだんだん人が集まってきて、
いろんなことを訊いてきます。
先生は、自分のことよりも、
ぼくのことを紹介し始め、
出している本の宣伝までしてくれています。
ぼくは、心の中で、
この辺の本屋にウチの本は向かないんだけどなあ、
と思いました。
案の定、「へ~、そうですかあ」
みたいな雰囲気がただよってきました。
それでも先生は諦めず、
本屋の中に入っていってしまいました。
ぼくはケータイで家人に電話を入れ、
これから先生と二人で家に行くことを伝えました。
ところでK先生、
なかなか本屋から出てくる気配がありません。
心配になり本屋に入ると、
先生の姿はどこにも見当たらず、
店長らしき女性に訊いたら、
先生は、これから四国を訪ねざっと一周し、
夕方また横浜に戻ってくると言い残して
出かけたというではありませんか。
先生は、どうやって四国を一周し、
また横浜に戻ってくるつもりなのだろうと、
不思議に思いました。
先生に尋ねても、おそらく、
ガハハ、ガハハと
顔を真っ赤にして笑うに決まっています。

 首筋を嘗めてぞろりの夏の雨

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