瞑想のたのしさ

 春の宵浮かれ調子で出てみたし
 朝晩の気功を始めてもうすぐ800日になります。
 元気になりたい、健康になりたいと思って始めましたが、おかげ様でそんなきっかけを忘れるぐらいになり、この頃は、朝晩のオヤツとでもいうのか、なんだか遊びみたいになってきました。
 体を動かしていますが、瞑想的な気持ちにもなりますから、気功はいわば動く瞑想とでもいった具合です。
 ちょっと乱暴ですが、瞑想のたのしさは、なんと言っても持たないことのたのしさを味わう、味わえることではないかと思います。
 理屈ではなく、気持ちいい状態で時空を浮遊している感覚になると、いろいろ持っているものが煩わしくなる、いや、これだとすこし乱暴すぎますね。ええと、気功を終えてしんなりと眼を開けます。すると、周りにいろんなものがあるわけです。アソコにもアソコにも。親しいものたちであるはずなのに、ちょっと違って見えるんですね。
 呼吸するも一の快楽なり、って、哲学者の西田幾多郎が書いていますが、たのしさを見つけたときの喜びというのは、ほんとに大事だなと思います。
 春の宵じっと止まる哀しさよ

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