風はこころをつくる

 

本を読まない子どもだったわたしが、のちに本を読むようになったきっかけが、
小学四年生のときに母が買ってきてくれた『こころ』
であることは、
これまで、書いたり、話したりしてきましたが、
読書のきっかけだったというだけでなく、
今も気になります。
その場合のこころは、
漱石の『こころ』でなく、
知と情と意で構成されるという人間のこころそのものなのですが。
神経心理学の山鳥重(やまどり あつし)さんの本から、
先週、この欄に引用しましたが、
知・情・意は、順番が、知→情→意でなく、情→知→意、
というのは、
まさに目から鱗が落ちるようでありました。
なおかつ、
情が「瀰漫性の経験」である、
ということがこころに残っています。
「瀰漫性」だもの。
ひろがり、はびこるような経験が「情」こころの元だといわれれば、
うつを経験した人間からすると、
なおさら、
なるほどと納得です。
また、
このごろ気になるAIについて思考をめぐらせると、
やはり気になるのは、人間のこころ。
どこまでいっても、
こころ、こころ、ではあります。
さて、
こころつながりということでいいますと、
西行さんの歌にこんなのがあります。

 

おしなべてものを思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風

 

峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
「一様に、物思いをしない人にさえ、物思いの心を起させる秋の初風よ。」
秋風がこころつくる。
さすが西行さん、と思いますけれど、
そういう感性はけっこう多くの人が持つものなのかもしれない、
それをよくぞことばにしてくれた、
だからさすが西行さん、
なのかな。

 

・鯉ゆらり桜蘂降る川面かな  野衾

 

AIについてつらつらと

 

このごろあちこちで目にし、耳にするのがChatGPT。
ユーザーが質問すると、回答を文章で示してくれるといいますから、いたって便利。
AIについてわたしがいつも思うのは、
AIは、にんげんや社会を映しだす、おおきな鏡かと。
「鏡よ鏡…」みたいな。
ChatGPTの登場で、
鏡はさらに高性能になり、いろいろ映しだしてくれそうです。
たとえば、
早起きしてこのブログを書いている
(正確には、ああかな、こうかな、と思考をめぐらし、
考えあぐねながらキーボードを叩いている。
きょうのこれもそう)
行為の意味が、
じまえで書くことの意味が、
以前にも増して映しだされ、炙りだされてくるようです。

 

本書を読むまで、
ぼくは書くことは建築物を作ることに近いと思っていた。
だが、
書くことはむしろ彫塑を作ることに近い行為なのではないか。
そこに主題がある。
主題を粘土や石膏で肉付けしていく作業があり、
時に余分な部分を削り、
また必要と思われるものを足していきながら試行錯誤の末に成形を施す。
成形が近づいていくべきは主題の持つ真理という仮説である。
(アニー・ディラード[著]柳沢由実子[訳]『本を書く』田畑書店、2022年、pp.202-3)

 

引用した文章は、
アニー・ディラードさんの『本を書く』の巻末にあるエッセイ
「書くことの真理」の一節。
著者は、BOOKNERD店主の早坂大輔さん。
ディラードさんの文章を、
共感をおぼえつつ読みましたが、
早坂さんのことばも納得です。
書くことは、
めんどうくさい、といえば、確かにめんどうくさいわけですけど、
このブログのことでいえば、
23年つづけてきてこのごろ思うのは、
いまなら三日もすると、
書いた内容を忘れているのに、
思いついたことを忘れるために書いているようにすら思える節もあるのに、
時を経て、
五年、十年
(もっとのことも)
ふと、
こういう感覚を以前持ったことがあったな、
なんだなんだ?
という意識が不意にもたげ、
もしやと思い、
じぶんの書いたものを検索し、
調べてみる。
と。
あったあった! あった~~~!!
なんてことが。
てことは、
めんどうくささとか、手作り感、みたいなものがこころになんらか作用して、
見えない根をのばし、
根を張り、
思いもせぬところから、
思わぬタイミングで芽を吹き、
ああああ、あ、
って。
書いたときには思いもしなかった、
考えが及ばなかった
ことの意味が、
いま、このとき、において浮上してくる。
なんとも言えない感に打たれる。
「生きている」が「生かされている」
に置き換わる瞬間、
とでもいいましょうか。
なので、
めんどうくさい、は、にんげんくさい、
かもしれない。
ところで。
このごろ、よく根のことを思い、
考えます。

 

・ゆふまぐれ桜蘂降る祈りかな  野衾

 

「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」

 

いまだと「おもう」と表記する「思う」ですが、歴史的仮名遣だと「おもふ」。
大野晋さんと、学習院大学の大野スクールの仲間たち
でつくりあげた『古典基礎語辞典』
をたまに開いて見るのですが、
「おもふ」の語源について、おもしろいことが書かれていました。
ちなみに「おもふ」の項目は、
筒井ゆみ子さんが執筆しています。

 

オモフは形容詞オモシ(重し)と同根かとする説があるが、
オモフ全体の使用状況からみれば、二語の観念は必ずしも合っていない。
『名義抄』のアクセントも一致しない。
オモフは今日では心理の活動を表す語であるが、
おそらく根源的には、
オモは「面」で、
心中の意識を表情に出す、顔に感情を表す、
といった、
外に表出する動作の意から発した語と考えられる。
「憎む」「恨む」「恵む」などが心理的な意識を表すと共に、
「一太刀うらむ」「物をめぐむ」
など、
動作を表す用法があるのと同じである。
そこから転じて、
それらの表情の原因をなす胸中の意識の活動そのものをも表すようになり、
多様な心理を扱うことでその用法が増大し、
語の意味の中心が大きく移ったものと考えられる。
このような語源推定が可能であれば、
意味の展開の過程としては、
同じ心理の活動の中でも、情意を扱う用法の方が、思考・判断を扱う用法より古く、
早く生じたものといえよう。
(大野晋[編]『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年、p.286)

 

「このような語源推定が可能であれば」
とありますから、定説になってはいないのかもしれません。
むかしむかしのことではありますし、
ことばの移ろいを探るのは簡単ではないのでしょう。
わたしが面白いと感じたのは、
「同じ心理の活動の中でも、情意を扱う用法の方が、思考・判断を扱う用法より古く」
の部分。
大きな鼻と髭が特徴のデカルトさんの
「我思う、ゆえに我あり」
を思い出し、
また、
「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」
の寅さんのセリフも頭に浮かんできました。
「こころ」は知と情と意で出来ているとはいっても、
それはそうかもしれないけれど、
三等分したケーキのようなイメージとは、
どうやらちがっていそう。
まして、知→情→意、という順番ではないようです。

 

こころは個体の主観現象の総体であって、
瀰漫性の経験(情)と心像性の経験(知)と行動制御の心理経験(意)
から成り立っている。
まず、
感情が発生し、
その上に心像が生成し、その心像を操って、目的性のある意志が立ち上がる。
つまり、
知・情・意なのだが、
発生順に並べると情→知→意である(山鳥、一九九八)。
意識が働くと、
こころの動きが自覚(経験)される。
この経験のもっとも基底にあるのが感情である。
ほとんどの感情はあいまいなこころの動きとしてしか経験されない。
感情を背景に輪郭を持つ経験(心像)が立ち上がる。
意はこれらの心像をまとめてこころをひとつの方向に向かわせる。
(山鳥重『知・情・意の神経心理学』青灯社、2008年、p.201)

 

著者の山鳥さんですが、お名前は、「重」と書いて「あつし」さん。
脳科学者、医師で、
専門は、神経心理学とのこと。
このように説明されると、寅さんの、
「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」
が、
なおいっそうのリアリティを帯びてくるようです。

 

・新緑をいま存在の祭かな  野衾

 

こころを育てる

 

高校に入学して間もないころ、
祖母が新聞紙にくるんだ、ずっしり重いものを持ってきて、わたしの目の前で広げてくれた。
二宮金次郎の像。
祖母が若いころ世話になった旅館の女将さんから、
孫のわたしへのプレゼントだと言って、
渡してくださったものでした。
いまも、本棚の一隅を占めています。
下の文章を読んだとき、
また、本棚の像に目が行きました。

 

2019年シーズンのオールスターゲームを挟んだ時期に、
清宮幸太郎がバッティングに苦しんでいました。
10試合以上もヒットが出ず、32打席連続で安打が出なかった。
打率は2割を切ってしまった。
調子が上向かないなかで、
彼は必死に練習に取り組んでいました。
「なかなか結果が出ないこの時期をどう生かすのかは自分次第です」
とも話していました。
だとすれば、
監督に必要なのは忍耐です。
幸太郎を信頼して使う。
先発で起用しないこともありますし、
先発で使っても代打を送ることもある。
けれど、
彼の結果に対してジタバタしない。
あたふたもしません。
自分の身を正して、心を正して、清く正しく生活していく。
愚直な積み重ねこそが、
周りの人たちに響くのだと信じます。
穏やかな波のように、
ゆっくりと広がっていく。
正しい心、正しい行ない、正しい言葉遣い、正しい努力を続けて、心を成長させていく。
自分自身の成長によって組織にいい影響を与えたい、
と私は考えます。
(栗山英樹『栗山ノート』光文社、2019年、p.146)

 

すぐに、WBCで村上宗隆さんを起用しつづけ、
それが最後に、
あのようなすばらしい結末につながったことを思い出しました。
上で引用した清宮さんを思うこころと、
村上さんを思うこころには、
共通したものがあるようです。
「忍耐」のことばに目がとまります。
ただ、
WBCで、ずっと栗山監督のそばいてサポートしたヘッドコーチが語った
「日に日にやつれていく栗山さん」
のエピソードは、
生半可なことではないとも思います。
信じることは、
生易しいことではなさそうです。

 

・閑さのうちを賑はふ春日かな  野衾

 

うまくやろうとしない

 

それを自戒としたい。
編集の仕事にたずさわって34年。出版社の代表として24年。
それなりに経験を積んできましたから、
それなりの成功体験、失敗体験があります。
そうすると、
体験から導き出されたじぶんなりのセオリー、
といっては大げさかもしれませんが、
法則(同じか)みたいなものが
いつの間にかできてきて、
それに基づいた行動をしよう、
スマートに、スムーズに、仕事をこなそうという気持ちが、
知らず知らずのうちに、
あわあわともたげてきます。
力の節約、知恵と呼びたくなりますが、
これ、
落とし穴でしょうね。
栗山英樹さんの本を読んでいたら、
「うまくやろうとするな」
という見出しで、
京都大学の総長を務めた平澤興さんの著書『一日一言』にあることばを引きつつ、
こんなことが記されていました。

 

18年10月11日、レギュラーシーズンを札幌ドームで終えた試合後、
ファンの皆さんへの感謝を告げるホーム最終戦セレモニーが行なわれました。
毎年恒例の時間で、
最初に選手会長の中島卓也がマイクの前に立ちます。
「今シーズンもたくさんの声援、ありがとうございました。
チームの目標、ファンの皆様の期待していたリーグ優勝に手が届かず……」
スムーズに話していたようにも聞こえましたが、
中島自身はうまくいっていなかったのでしょう。
わずかな沈黙のあとに
「すいません、もう一度やります」
と言って頭を下げました。
スタンドには笑いの波が広がっていきます。
私も思わず苦笑いをしてしまいましたが、
中島の飾らない人柄が伝わる素晴らしいスピーチでした。
何事もうまくやろうとすると、
知恵を働かせなければ、
技術を駆使しなければ、
といった考えが働きます。
場合によっては、
こざかしい手練手管を持ち出すかもしれない。
誠実さや真心が、
置き去りにされていきます。
たとえうまくいったとしても、それでは心がこもっているとは言えません。
誰かの心を動かすことはできない。
感動を与えられません。
実直に、愚直に、泥臭くやり続けたい。
(栗山英樹『栗山ノート』光文社、2019年、pp.124-5)

 

ここのところを何度も読み返しました。
その通りであると思います。
WBCのプレーには感動があり、それが多くの人に伝わったと思いますけれど、
いろいろな職業のどういう仕事においても、
うまくやろうとせずに、
誠実さやまごころを大切にすることで、
感動を伝えることがいちばん。
それができれば本望という気がします。

 

・屋台くり出す大岡川の桜  野衾

 

本歌取りのこころ

 

伊藤博さんのものによって『万葉集』を、
片桐洋一さんのものによって『古今和歌集』を読み終えましたので、
ただいま、
峯村文人(みねむら ふみと)さん
のものにより
『新古今和歌集』を読んでいます。
和歌や連歌には、
古い歌の語句をかりて新しい歌をつくる本歌取り
という技法がありまして、
学校でも習ったような気がしますが、
いま、
時間をかけて三つの歌集を順番に読みながら、
あることに気づきました。
それは、
永遠を思う、
さらに、こいねがうこころが、
本歌取りをさせているのではないか、
ということ。
『新古今和歌集』251番、慈円さんの歌に、

 

鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空

 

があります。
これの本歌は、『万葉集』にある柿本人麿さんの、

 

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも

 

また、254番、
藤原定家さんの歌に、

 

ひさかたの中なる川の鵜飼舟いかに契りて闇を待つらん

 

があります。これの本歌は、
『古今和歌集』にある伊勢さんの、

 

久方のなかに生ひたる里なれば光をのみぞ頼むべらなる

 

『新古今和歌集』の歌人たちが、
先行する『万葉集』『古今和歌集』を読み、
いかに読み込み、
自家薬籠中のものにして自身の歌を詠んでいたかと、
この辺りからも想像するわけですが、
鵜飼舟、鵜舟といってすぐに思い出すのは
芭蕉さんの、

 

おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

 

の句であります。
それで、
芭蕉さんというのは、ものすごい勉強家ですから、
鵜飼いの舟をかつての歌人たちがどのように詠んでいたかは、
知悉していたのではないかと思われます。
そのうえでの、
「おもしろうて~」かと。
それでさらに、
勝手な想像はどこまでも、糸の切れた凧みたいにふわりふわり、飛ぶことになりまして。
古人の歌を読み、
じぶんでも歌を、また俳句を詠み、
この世の儚さを思いつつ、
でもやっぱり、
そうは言ってもなかなか割り切れない。
永遠を思う切なる気持ちが、
古人の歌のこころに思いを馳せ、
それを「いまここ」に詠み、
じぶんもやがてこの世を去って逝かなければならないけれど、
のちに生まれてくる歌詠みたちのみなさま方、
どうぞどうぞ、
わたしのこころも受けついで歌ってください、
と、
それを願うこころが、
本歌取りをさせているのではないか。
そんなことを想像します。
この場合の「こころ」は「情」であると思います。

 

・茹でられて青さ哀しきほうれん草  野衾

 

応援歌

 

『栄冠は君に輝く』という歌があります。
半世紀も昔になりますが、
高校に入学した折、
学ランに身をつつんだ応援団の方たちが教室にやって来て、
多くの歌を教えてくれました。
そのうちの一つ。
加賀大介さん作詞、古関裕而さん作曲のこの歌は、
「全国高等学校野球大会の歌」として、
いまも甲子園で流れます。
「応援歌」といって、まず思い浮かぶのがこれ。
聴けばいつでも高揚し、
気分がふるい立ってくるように感じます。
ところで、
そういう感じとはちがいますけれど、
「応援歌」と呼んでいいのでは思うものに、
ビリー・ホリデイの『レディ・デイの肖像(A PORTRAIT OF LADY DAY)』
があります。
彼女のCDを何枚か持っていますが、
いちばん聴くのがこれ。
親しくさせていただいた詩人の飯島耕一さんに、
『ゴヤのファースト・ネームは』
という詩集がありまして。
その一節。

 

 

何にも興味も持たなかったきみが

ある日

ゴヤのファースト・ネームが知りたくて

隣の部屋まで駆けていた。

 

 

この箇所を目にした瞬間、かつて、涙があふれてきたことがありました。
いまはそんなことはないけれど、
休日、
コーヒーを飲みながら、
ビリー・ホリデイのお気に入り二枚組CDを聴いていると、
不意に思い出すときがあります。

 

・誇らかに鶯の声ひびきをり  野衾