AIについてつらつらと

 

このごろあちこちで目にし、耳にするのがChatGPT。
ユーザーが質問すると、回答を文章で示してくれるといいますから、いたって便利。
AIについてわたしがいつも思うのは、
AIは、にんげんや社会を映しだす、おおきな鏡かと。
「鏡よ鏡…」みたいな。
ChatGPTの登場で、
鏡はさらに高性能になり、いろいろ映しだしてくれそうです。
たとえば、
早起きしてこのブログを書いている
(正確には、ああかな、こうかな、と思考をめぐらし、
考えあぐねながらキーボードを叩いている。
きょうのこれもそう)
行為の意味が、
じまえで書くことの意味が、
以前にも増して映しだされ、炙りだされてくるようです。

 

本書を読むまで、
ぼくは書くことは建築物を作ることに近いと思っていた。
だが、
書くことはむしろ彫塑を作ることに近い行為なのではないか。
そこに主題がある。
主題を粘土や石膏で肉付けしていく作業があり、
時に余分な部分を削り、
また必要と思われるものを足していきながら試行錯誤の末に成形を施す。
成形が近づいていくべきは主題の持つ真理という仮説である。
(アニー・ディラード[著]柳沢由実子[訳]『本を書く』田畑書店、2022年、pp.202-3)

 

引用した文章は、
アニー・ディラードさんの『本を書く』の巻末にあるエッセイ
「書くことの真理」の一節。
著者は、BOOKNERD店主の早坂大輔さん。
ディラードさんの文章を、
共感をおぼえつつ読みましたが、
早坂さんのことばも納得です。
書くことは、
めんどうくさい、といえば、確かにめんどうくさいわけですけど、
このブログのことでいえば、
23年つづけてきてこのごろ思うのは、
いまなら三日もすると、
書いた内容を忘れているのに、
思いついたことを忘れるために書いているようにすら思える節もあるのに、
時を経て、
五年、十年
(もっとのことも)
ふと、
こういう感覚を以前持ったことがあったな、
なんだなんだ?
という意識が不意にもたげ、
もしやと思い、
じぶんの書いたものを検索し、
調べてみる。
と。
あったあった! あった~~~!!
なんてことが。
てことは、
めんどうくささとか、手作り感、みたいなものがこころになんらか作用して、
見えない根をのばし、
根を張り、
思いもせぬところから、
思わぬタイミングで芽を吹き、
ああああ、あ、
って。
書いたときには思いもしなかった、
考えが及ばなかった
ことの意味が、
いま、このとき、において浮上してくる。
なんとも言えない感に打たれる。
「生きている」が「生かされている」
に置き換わる瞬間、
とでもいいましょうか。
なので、
めんどうくさい、は、にんげんくさい、
かもしれない。
ところで。
このごろ、よく根のことを思い、
考えます。

 

・ゆふまぐれ桜蘂降る祈りかな  野衾