「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」

 

いまだと「おもう」と表記する「思う」ですが、歴史的仮名遣だと「おもふ」。
大野晋さんと、学習院大学の大野スクールの仲間たち
でつくりあげた『古典基礎語辞典』
をたまに開いて見るのですが、
「おもふ」の語源について、おもしろいことが書かれていました。
ちなみに「おもふ」の項目は、
筒井ゆみ子さんが執筆しています。

 

オモフは形容詞オモシ(重し)と同根かとする説があるが、
オモフ全体の使用状況からみれば、二語の観念は必ずしも合っていない。
『名義抄』のアクセントも一致しない。
オモフは今日では心理の活動を表す語であるが、
おそらく根源的には、
オモは「面」で、
心中の意識を表情に出す、顔に感情を表す、
といった、
外に表出する動作の意から発した語と考えられる。
「憎む」「恨む」「恵む」などが心理的な意識を表すと共に、
「一太刀うらむ」「物をめぐむ」
など、
動作を表す用法があるのと同じである。
そこから転じて、
それらの表情の原因をなす胸中の意識の活動そのものをも表すようになり、
多様な心理を扱うことでその用法が増大し、
語の意味の中心が大きく移ったものと考えられる。
このような語源推定が可能であれば、
意味の展開の過程としては、
同じ心理の活動の中でも、情意を扱う用法の方が、思考・判断を扱う用法より古く、
早く生じたものといえよう。
(大野晋[編]『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年、p.286)

 

「このような語源推定が可能であれば」
とありますから、定説になってはいないのかもしれません。
むかしむかしのことではありますし、
ことばの移ろいを探るのは簡単ではないのでしょう。
わたしが面白いと感じたのは、
「同じ心理の活動の中でも、情意を扱う用法の方が、思考・判断を扱う用法より古く」
の部分。
大きな鼻と髭が特徴のデカルトさんの
「我思う、ゆえに我あり」
を思い出し、
また、
「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」
の寅さんのセリフも頭に浮かんできました。
「こころ」は知と情と意で出来ているとはいっても、
それはそうかもしれないけれど、
三等分したケーキのようなイメージとは、
どうやらちがっていそう。
まして、知→情→意、という順番ではないようです。

 

こころは個体の主観現象の総体であって、
瀰漫性の経験(情)と心像性の経験(知)と行動制御の心理経験(意)
から成り立っている。
まず、
感情が発生し、
その上に心像が生成し、その心像を操って、目的性のある意志が立ち上がる。
つまり、
知・情・意なのだが、
発生順に並べると情→知→意である(山鳥、一九九八)。
意識が働くと、
こころの動きが自覚(経験)される。
この経験のもっとも基底にあるのが感情である。
ほとんどの感情はあいまいなこころの動きとしてしか経験されない。
感情を背景に輪郭を持つ経験(心像)が立ち上がる。
意はこれらの心像をまとめてこころをひとつの方向に向かわせる。
(山鳥重『知・情・意の神経心理学』青灯社、2008年、p.201)

 

著者の山鳥さんですが、お名前は、「重」と書いて「あつし」さん。
脳科学者、医師で、
専門は、神経心理学とのこと。
このように説明されると、寅さんの、
「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」
が、
なおいっそうのリアリティを帯びてくるようです。

 

・新緑をいま存在の祭かな  野衾