時間のこと
『論語』に「子、川の上に在りて曰わく、逝く者は斯くの如き夫、昼夜を舎てず。」
があります。
「上」は、「うえ」でなく「ほとり」。
孔子さんが川のほとりで言ったことばについて、
吉川幸次郎さんの解説は、
「過ぎ去る者は、すべてこの川の水の如くであろうか。
昼も夜も、一刻の止むときなく、過ぎ去る。
人間の生命も、歴史も、この川の水のように、過ぎ去り、うつろってゆく。」
まさしく「川の流れのように」
であります。
この世のすべてのことには時があるという『聖書』のことばも響きます。
過去から未来へと向かう時の流れは、
どうすることもできず、
ピンで留めるように、いま現在を捉えることはできません。
なげいても、わめいても、仕方のないことで、
ただじっと、我慢し、
あきらめ眺めているしかないようです。
しかし、
川の流れのように水平方向にうつろいゆく時のイメージに対して、
「時が止まったように」
と
たとえられもする瞬間、
垂直方向に開かれる「現在」というのが、
一方にある気がします。
恩寵のように降ってくる「時間」。
「開かれた明るみ」
に打たれ、
こころがふるえます。
じぶんの業で叶うことではありません。
恩寵を待つ行為は、
たとえば、
うさぎが走ってきたと思いきや、木の切り株に当たって死んだのを目の当たりにし、
以来、仕事を投げ捨て、毎日切り株を見張り、
またうさぎが飛び出して来やしないかと待ちつづけたものの、
ついにうさぎは捕まえられなかったという
宋の農民の愚かな姿に似ているかもしれず。
まずは、
きょうの仕事を由無し事とせずに、
こころを籠め、
きちんときちんとこなしていくしかないようです。
・忙中の破れかぶれや蟬の声 野衾