道徳の時間

 

いまの道徳の授業がどんなふうに行われているのか分かりませんけれど、
小学時代にわたしが体験したことでいいますと、
道徳の授業、道徳の時間は、総じて、たのしみな時間だった
気がします。
なんでかといえば、
予習したり復習したりする必要などまったくなく、
与えられたテーマについて、
ああでもない、こうでもない、ああでもあり、
こうでもあるか、
先生の話を聴いたり、友だちの話に耳を傾けたり、
なにかわたしも発言したかもしれない。
あの授業が役に立ったかどうかは分かりませんけれど、
いろいろ考えるきっかけにはなっていた
かもしれず、
子どもの日常にもっとも近い心情と感情が取り上げられ、汲まれていた気がします。
勉強という感じがありませんでした。
思い返せば、
担任の先生の存在が大きかったかな、
とも思います。
たとえば小武海先生は、
大柄で太っていて、いつもニコニコの笑顔を湛え、
子どもたちと相撲を取ったり、
(先生にぶつかっていったときの、ブヨンとしたデップリの腹の感触を忘れません)
体育の時間にグラウンドでソフトボールをすれば、
特大のホームランを打って、
体育館のガラス窓をボールが直撃したり。
そんなことでしたから、
道徳の時間も、
先生を信頼していればこそ、
100パーセントはあり得なくても、
割と自由に話すことができたし、聴けたし、
ほかの科目と違って、
ふかぶかと羽を伸ばしていたよう。
伊藤陽子先生、齋藤時子先生、星野喜美江先生、川上景昭先生、小武海市蔵先生、
なつかしいなぁ。

 

・蟬つぶて古代の声を放ち飛ぶ  野衾