人生と文学

 

『回想録』を読みつづけていくと、巻を追うごとに、次第に人生の悲哀がにじみ出てくる。
人生には寂しさがつきまとうものだから、
悲哀がにじみ出たからといって不思議はないと言ってしまえばそれまでだが、
精力の浪費家であり、現世謳歌のルネッサンス人の後裔でもあるカザノヴァの場合には
何かしら残酷な印象を与えられる。

 

時ならねども、すぎゆくものは我らなり

 

四十前後のカザノヴァの人生には、
男ならば誰しも羨望の念を抱かずにはいられないだろうが、
四十歳以後のかれには憐れをもよおされもする。
そこにはもはや、
プロン脱獄や二人の修道女を同時に相手としたような華やかなロマンはない。
超人的な精力絶倫男としての能力の喪失。老醜。性的機能の退化と金力の欠如……
ツヴァイクは、
こうした骨抜きとなったカザノヴァとはいったい何者かと問いただす。
そして、
それはわびしく孤独を守る肉体だと答え、
その隠れ家には諦めという危険な要素が、自信に代わって一種の哲学として忍び込んでくる
と断言する。
『回想録』のひとつの面白さは、
次第にその濃さを増してくる後半の影の部分である。
少なくとも私には、前半の絢爛とした冒険譚以上に興味深い。
広い意味での文学が語られているからである。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 5』河出書房新社、
1969年、p.561)

 

引用した文章は、
『カザノヴァ回想録 5』の巻末に付されている訳者・窪田般彌の解説の末尾。
わたしはまだ四巻目の途中なので、先走りではありますが、
四巻目を読みながら、
コーヒーを口にし、
ふと右手にある五巻目に目が行き、
自動運動のごとく手を伸ばして、巻末を開いてみたら、目を吸い寄せられた。
わたしの愛読書に中野好夫の『文学の常識』(角川文庫)
がありますが、
その本ともひびき合う内容で、
つまるところ、精神と肉体の問題、人間とは何か、
を書くのが文学ということになりそうです。

 

・いらつきの母に寂しみ三が日  野衾