感恩報謝

 

神を愛することは、人間の無力を以てして、何ものかを神に附加へる事を意味する限り、
不可能ならざるを得ない。
却てこの無力を自覺せしめられ、その罪惡を赦す神の愛を、
全く自らの値せざる恩寵として、謙虚に自己を無にして感受し、
それに對する感恩報謝の行に於て、
神の愛卽無の媒介として自ら奉仕することより外に、神を愛する途はない。
(「附録 キリスト敎とマルクシズムと日本佛敎」、
『田邊元全集 第十巻 キリスト敎の辯證』筑摩書房、1963年、p.292)

 

名前が同じ元(はじめ)さんでも、中村さんの方の『広説佛教語大辞典』をひらくと、
「感恩」も「報謝」も項目として上げられています。
ベトナムでは「ありがとう」というときに、「感恩」という、
と『大辞典』に記されています。
感恩、報謝ということばは、
たしかに佛教のにおいがしますけれど、
上に引用した文言全体は、
新井奥邃の「有神無我」と近く感じられ、
かならずしも牽強付会ではない
ように思います。
あたまを雲の上に出す日本一の富士山に登る登山口がいくつかあるように、
真理、また真実へ至る途はいくつかある、
ということでしょうか。

 

・枯蟷螂三角頭うへは富士  野衾