自力と啓示

 

人間は自然と社會との主人となつただけで、自分自身の主人となることは決してできぬ。
前者は人間自力の能くする所であるとしても、
後者は人間自力の可能とする所ではあり得ない。
これは人間的自己の絕對否定を要求するものだからである。
それは決して、
宗敎の啓示以外の何ものに於て成立するのでもない。
カントが啓示に於ける神の受肉を以て、根源惡からの解放の原動力と認めた所以である。
マルクスの自由論はカントの倫理の立場に止まり、
未だ後者の宗敎論の立場に逹するものではない。
それは理性の絕對批判、絕對分裂に於て無を徹底的に實現するものでなく、
なほ目的論的同一性に纏綿せられて有の繫縛を脫しないのである。
これ唯物論の限界に外ならない。
眞の自由解放は我性からの解放なくしてあり得るものではない。
然るに唯物論は之を放置して、
ただ理性の卽時的抽象的解放を說くに止まる。
所詮それは理論的能力としての理性の立場を脫せず、
眞に無の實踐的立場に逹するものではないのである。
實踐的唯物論とか辯證法的唯物論とかいふ概念そのものが正に自己矛盾を含む
といふ外ないではないか。
(「附録 キリスト敎とマルクシズムと日本佛敎」、
『田邊元全集 第十巻 キリスト敎の辯證』筑摩書房、1963年、pp.288-9)

 

古い本を開くと旧漢字がつかわれており、
画数の多さは、
字の本来の意味と成り立ちを表していて面白い、
だけでなく、
見た目が、なんとなくカッコいいと思われるものが少なくないので、
ここに引用する場合、
なるべく、
一字一字ネットで検索しコピペしているのですが、
すべての漢字が旧字に変換できるわけではありません。
わたしが出来ないだけかもしれません
けれど。
たとえば上の文章に「的」の字が何度かでてきます。
「的」のつくりの「勺」ですが、
上で引用した本のなかでは、
斜めに下がった点が、点でなく、横棒の「一」であり、
わたしは横棒の「一」の「的」がカッコいいと思うのですが、
出し方が分かりません。
なので、
引用した文章の漢字は、
旧漢字に変換できているものと、そうでないものがあります。
それはともかく。
田邊元のこの本、
小野寺功先生の本によく出てきますので、
また、
哲学者の田邊が本気でキリスト教と格闘した記録としても読めそうなので、
さっそく読んでみました。
と、
序文から「われ信ず、わが不信を助けたまへ」
の聖句が幾度か引用されており、
ああ、
この本は田邊の必死の信仰告白の書であるなと感じます。
さらに、
付録として収載されている「キリスト敎とマルクシズムと日本佛敎」は、
わたしが大学時代に感じていた疑問にピタリと一致し、
我が意を得たりの感が深く、
田邊元が一気に近く感じられる気がします。

 

・アイデンティティを突破する嚏かな  野衾