ハイデガーにとっての芸術

 

こうした思考がどれほど芸術との近隣関係にあるのかを、
ハイデガーは、
一九三五年に初めて行った講義「芸術作品の起源」において説明している。
彼はそこで履き潰された自分の靴を描いたヴァン・ゴッホの絵
(ハイデガーはそれを農夫の靴と間違って考えている)
を例にとって、
芸術が事物の「どうでもよい平凡なものという性格」を失わせて姿を現わさせる
さまを記述している。
芸術は描写するのではなく、目に見えるようにする。
芸術が作品の中に取り上げるものは、
世界の全体にとって透き通って見える一つの独特の世界を作り上げ、
しかも世界を作り上げるこの行為はとくにそうしたものとして経験可能なものになる。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、pp.436-7)

 

見慣れていて、ふだんの生活の中でとくに意識に上らないものが、
あるとき、ふと、抜き差しならない切実なものに感じられ、
これまで見慣れ、つかい慣れ、知ってきたものとまったく別物に感じられる瞬間というのがあり、
そうなると、
ことばではとても言うことができなくて、
ただだまってその場に立ち尽くすしかない、
そんな時がたまにあります。
ハイデガーの〈存在の明け開け〉は、
そのような事態を指していると思われ、
芸術はそれをあらわに見せてくれると言えそうです。

 

・在りと在る存在の明け聖夜ふる  野衾