哲学をするということ

 

一九二八年、すでに有名になっていたマルティーン・ハイデガーは、
学生時代に何年か滞在したコンスタンツの神学生寄宿学校のかつての舎監に宛てて
こう書いている。
「おそらく哲学は最も強烈かつ持続的に、
人間がいかに青二才であるかを示すものです。
哲学をするとは、結局のところ、
初心者であるということ以外の何ものでもありません」。
ハイデガーが称えている初心ということにはさまざまな意味が含まれている。
彼は初心の巨匠であろうとする。
ギリシャにおける哲学の始まりに、彼は過ぎ去った未来を探り、
現在においては生のただ中で哲学が新たに生まれて来る地点を見つけ出そうとした。
こうしたことが起こるのは、「気分」においてである。
思考でもって始めると称する哲学を彼は批判する。
実際はそうした哲学は
驚き、不安、心配、好奇心、喜びなどといった「気分」でもって始めているのだと、
ハイデガーは言う。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、p.9)

 

小学生、中学生の頃、理科の授業で人体について説明されると、
へ~、人間の体って、そういうふうに出来ていて、
そんなふうに繋がって動いているんだ、
と、
おもしろがって先生の話を聴いていましたが、
他方で、
当時はうまく言葉にできませんでしたが、違和感を覚えていたように記憶しています。
人間はそういうふうに出来ているかもしれないけれど、
オイ(=わたし。秋田方言)はそうではない。
いまここに居るオイを、そんな理屈で説明しきれるものか。
でも。
でも。
考えてみれば、オイも、人間なんだよなー。
そんなような違和感だったと思います。
きわめて気分の問題であり、
ハイデガー風にいえば、
人生の初心者として、
現存在の不安と戦きに盈たされていたのだと、いま思います。

 

・凩や現存在の足下を  野衾