一般教養の時代

 

ヨーロッパの古典的人文的教養を十分につんだブルクハルトが、
ディレッタントをもって自任したことは少しもふしぎではない。
『世界史的考察』の序論でいっている。
「科学においてはただ限られた領域で巨匠、つまり専門家でありうるにすぎないし、
またどこかで人はそうあるべきである。
しかし、
もし人が普遍的概観の能力、いや、その尊重の念を失うべきでないとすれば、
人はなおできる限り多くの他の場所でディレッタントとなり、
少なくとも自己の責任において自己の知識を増し
見地を豊かにするためにも、
そうならねばならない。
さもないと人は専門を越えるすべてにおいて無知な人となり、
事情次第では全体として粗野な人間にとどまるであろう」。
ブルクハルトの著作はすべて一般教養に資することをめざしていたことは、
再三注意した通りである。
(西村貞二『新装版 ブルクハルト』清水書院、2015年、pp.135-6)

 

「一般教養」ということば、いつの頃からか、あまり聞かれなくなりました。
いまは、リベラル・アーツっていうのかな。
もう四十年以上前になりますが、
わたしは経済学部に入学しましたけれど、
一、二年生は教養部に所属し、
他の学部生といっしょに講義を聴きました。
専門外の本を教授たちからいろいろ紹介され、
じぶんでも意欲的に探して、いろいろ読み漁りました。
高校までのことでいいますと、
わたしの場合、
基本的に学校の先生の話を謹聴するというスタイルでしたから、
自主的に何かを学ぶということが少なかった
気がします。
その点、大学は、
講義を休み、教授の話を聴かなくても、
じぶんの興味関心にしたがってどんどん本を読めばいい、
本を読んで、じぶんのアタマで考えることが楽しい、
大学っていいなあ、
って、
単純に思いました。
専門性がだいじなことは言うまでもありませんが、
このところ、
そちらにウエイトがかかり過ぎている
ような気がします。
「一般教養」ということばは、
古くなったのかもしれませんが、
「一般教養」に籠められた思考、願いは古びてないと思います。

 

・駅ホーム遅延テロップ春寒し  野衾